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飯部


飯部
[地名の由来]

飯部いいべ」は現在の高倉町の大字地名の一つで、高梁川の右岸(西岸)に位置し、対岸には中井西方や川面町が、北には新見市法曽、南には、高倉町田井があります。そして吉備高原の山々を削る谷沿いに集落が点在し、宇治遠原から流れ出る河戸こうど川が高梁川に合流しています。「飯部」は、近似郷に属していましたが、のち川上飯部村となり、近世には、毛利の支配から幕府領、松山藩領、再び幕府領となり、元禄八年から松山藩領となって幕末を迎えています。

寛永一五年頃(一六三八頃)の村高を見ると、石浦村九二石余、遠原村一六三石余、東方村二六五石、飯部村六九石余と四か村が挙げられ、元禄一四年(一七〇一)には、八八四石余(「高梁市史」)、のちの「天保郷帳」(天保五年=一八三四)にも八八五石余と、飯部村一か村のみが記されていて、村が合併して大きくなっていることが分かります。

また、飯部村は、交通の要地でもありました。田井村から高谷こうだに、石浦、河内、秋が迫、大栢おおがやの集落を通り法曽ほうそ村(現新見市)へと続く新見往来の副道が通っていたことや、山奥の物資や吹屋からの銅・ベンガラなどが河戸川沿いの”七尺道“を通って飯部田井村の川湊へ駄送される物資輸送路の要所にもなっていました。

この村では、藩主が板倉氏に交代した延享元年(一七四四)に百姓と庄屋平次兵衛が年貢立替のことで対立し、百姓がそろって宇治村から中野村(現成羽町)付近まで逃散するという事件がありました(「高梁市史」)。また、慶応四年(一八六八)二月には、百姓が庄屋への不信、庄屋・肝煎きもいりの交代を求めて一揆を起こすという松山領騒動が起きています(「岡山県史」)。水谷勝宗が享保元年(一六八四)に本殿を寄進したといわれる御鉾みさき神社が鎮座し、境内には天然記念物に指定されている大杉があります。

ミサキ信仰の代表的な神社なのです。「飯部」という地名には、いろんな説があり、興味深いのは「川上郡誌」に書かれた「齋瓮いわいべ」「忌瓮」からいわいべ(いんべ)変化したという説です。それは、酒を盛って神に供えた陶器の壷のことで「インベ」の意味で、法曽で焼かれた陶器が今の伊部焼に移ったのだという言い伝えがあって、のち小堀政一が法曽に陶窯を起こしたのも偶然ではないと言うのです。古代窯業の地「インベ」から変化した地名だという説であります。

二つ目は、井戸..の意味を表す「辺いいべ」が変化した(池の水など流すいのほとりという意味)地名という説(「日本地名語源事典」吉田茂樹)であります。三つ目には「飯部」の「イイ」には「上の方」とか「山手の方」という意味があって方向を示す地名だという説、そして四つ目には、神域を意味する「斎い辺べ」・「伊い部べ」からきた地名だという説などがあるのです。

索引【い】 分類[地名の由来]