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田井


田井
【たい】
[地名の由来]

田井(たい)」は、高梁川の西岸(右岸)にある高梁市高倉町の大字地名の一つで、吉備高原の山々が高梁川に落ち込んでいて、平地には乏しいが、下梶村・上梶村・上秋町付近の河岸段丘と、高原上の斜面や谷間に集落や耕地が見られる地域で、江戸時代から明治二二年までは川上田井村でした。毛利の支配から幕府領、そして、成羽藩領、寛永一九年(一六四二)松山藩領、幕府領、元禄八年(一六九五)再び松山藩領と移り変わってきました。当時の村高は、「正保郷帳」(一六四四)では、二九五石余り、「天保郷帳」(一八三四)や「旧高旧領取調帳」(明治四年頃)には、一〇三七石余りと記録されています。 慶応四年(一八六八)には、この付近の百姓が、下秋町の杉戸八幡宮に集まり、庄屋の不正を追求して罷免を要求する松山領騒動が起きています(「岡山県史」)。 田井は、交通の要衝でもありました。川面・押野から川を渡り飯部の高谷(こうだに)・大栢(おおがや)・法曽へと続く新見往来の副道が通っていました。また、高瀬舟の船頭集落や川湊もあって駄馬で田井まで運ばれた吹屋の銅を下流に運んでいたという記録も残っています。明治五年〜昭和九年頃には、一一隻あって、高梁川流域では、船株の多いところで有名でありました。

神社には、訂明天皇、.、年(六」、、一)創」)一といわれ、水谷勝宗が産土神にした杉一一八幡宮や八大竜王を拝む「雨乞神事」、「モモテ祭り」のLつである「弓祈祷」による「ト占神事」、実盛(もり)様を祭る「虫祈祷」など古くからの村人こぞっての共同祈願の様式を多く残している海神(わだつみ)社、チガヤで作った「輪くぐりの神事」の御前神社(田井)などがあります。寺院では、高村山のふもとにある円広山建長寺(天台宗)があります。上秋町の上方四〇〇"付近には、建武年間(一三三四〜三八)足利尊氏東上の折、福山城(山手村)に籠もり城を守ったが、落城後は、上秋町に屋敷を構えて移り住んだといわれる児島の住人、田井新左衛門信高が築城したといわれる秋町城跡があります。後の田井信俊は、三村元親に属したといわれています。 「田井」という地名の由来は、上秋町付近に住んでこの地 を領有していた武将の田井氏の名をとって地名にしたといわれています。「田井」 は、人名と地名が一体化した地名の例なのです。