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西方


西方

[地名の由来]

「西にし方がた」は、現・高梁市中井町にある大字地名で、高梁川の左岸とその支流の佐伏川東岸及び東西に流れる津々川流域一帯に広がり一四の小字地名をもつ集落が点在する地域であります。古くは、備中英あ賀が郡中津井郷で現在の北房町中津井付近を中心とした「中津井荘」という荘園の一部でした(四十四回「中井」参照)。

平安時代の寿永三年(一一八四)には、源平合戦の戦功により尾張の国から山田重英が「中津井郷」を賜り、地頭としてこの地にやって来て斉さい田だ城(現北房町)を築いたといわれ、その後、次男の重春は、分家して斉田城の出城として、古見山城を築城したと伝えられ、今でも城跡の山が残っていて当時を忍ばせてくれていて古い歴史を彷彿させる地域なのです。慶長五年(一六〇〇)幕府領.松山藩領、再び幕府領、そして松山藩領と支配が移り変わっています。江戸初期の「正しょう保ほう郷ごう帳ちょう」(正保二・三年頃)によると石高は五八七石余り、定光寺領一五石となっていて、元禄一四(一七〇一)には、一五七八石余り(「高梁市史」)、そして幕末の頃の「旧高旧領取調帳」によると一五七九石余りと記録され、元禄八年(一六九五)の検地以後石高が急激に増加していることが分かります。

近世になると「西方」の市場は、川面から秋葉峠を越え上野を経て草間へと通じる新見往来の街道筋に当たる地域として市も立って賑わったのです。古見山城跡より市場寄りの山すそには、寺領一五石を与えられていた古刹曹洞宗巨龍山定光寺があります。寺伝によると大同年間(八〇六.一〇)玄げん賓ぴん僧そう都ずの開基と伝えられ、嘉吉年間(一四四一.四四)元槙しんによって再興されたと言われて、小堀氏の頃から家康などの位牌所にもなった寺で、英賀郡内に四三か寺の末寺がありました。また、柴倉には、同じ玄賓開基といわれる真言宗東光山光林寺や、口くち羽は春良(国吉城在番)の再建による鎮守の三座神社があります。

庄屋谷には板倉勝職つねが猪の害から村を守るために、文政一二年(一八二九)に勧請したという御嶽神社が、また、藩政改革を行った山田方谷の墓も西方市場に立っています。「西方」という地名の「方」は、上方、東方、北方、南方、下方などと同じ、方向や場所、領地などを表わす地名に用いられ、「西方」は、「東ひがし方がた」に対する「西方」という意味で、中世、山田重英の次男重春が東の「中津井荘」から西せいほう方にある領地に分家したことや「中津井荘」の中心から西方に当たる地域という意味から出た地名なのです。

索引【に】分類[地名の由来]登録日-2003/09/1818:58