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備中


備中
[地名の由来]

今回は、旧川上備中町の「備中」という行政地名を取り上げてみたいと思います。
備中町」は、成羽川の上・中流域にあって、東は成羽町宇治町、西は広島県境で神石じんせき郡神石高原町に接し、南は川上町、北は阿哲郡哲多町と哲西町に接しています。
備中町のほとんどは隆起準平原といわれる四五〇.六〇〇mの吉備高原上に集落が散在して、侵食小起伏面の地形が広がる地域であります。
もう一つの特色は、吉備高原を開かい折せきする成羽川の河谷はV字状に谷壁こくへき斜面を深く削り込む、穿入曲流せんにゅうきょくりゅう(穿入蛇行)
を示していて、河成段丘面がほとんどない峡谷地形であります。
備中町」の地形は吉備高原の特徴をよく表している場所として、日本で代表的な地域なのです。
備中町の歴史は古く「和名抄わみょうしょう」に記載されている備中国下道郡の北部地域五郷が分かれ鎌倉時代に川上郡ができて、五郷が記録されています。
その後、「備中町」が大半を占める「穴門あなと(戸)郷ごう」が加わり六郷となっています。それは「吉備津宮惣そう解文げぶみ」や「流鏑馬料足納帳やぶさめりょうそくおさめちょう」(「岡山県古文書集」)などに康正こうしょう三年(一四五七)や長禄ちょうろく二年(一四五八)の年号とともに「ふせ」や「由野」、「穴斗」などの地名が見えています。
「穴戸郷」は、現在の平川に本郷の地名が残っていて中世には「穴戸郷の中心が平川だった」(「備中町史」)といわれています(布賀亀石八幡宮棟札には布賀としている)。
備中町」は「川上郡誌」によると以前の「湯野郷」には東湯野、西湯野、西山の各村が後の「湯野村」となり、「穴門郷」は布賀、長屋、布瀬、志藤しとう・用瀬ようぜの各村が後に「富家村」となり、「穴門郷」平川村は後の「平川村」となって湯野、富家、平川の三村が昭和三一年合併して「備中町」となっています。
備中町」には、文化財も多く、鎌倉時代徳治二年(一三〇七)、高瀬舟の航路開発の難工事に関する記念碑「笠神かさがみの文字岩もじいわ」(国指定史跡)、また、室町時代初期の布賀亀石ふかかめいし八幡宮裏山にある応永銘の方柱碑ほうちゅうひ、そして、建武三年(一三三六)に平川高たか親ちかが近江から穴門郷に移って来たとき勧請したといわれる平川の鋤崎すきさき八幡宮、そして、秋祭りの渡り拍子などが有名です。
また、この地域では、江戸時代初めより高瀬舟による水運が開け、田原たばら・惣田そうだ河岸がしまで「是迄川船上これまでかわぶねあがル」(「正保備中国絵図」)と記録され通船が行われて栄えていました。
川沿いには河岸が発達し高原上の物資を急坂の多い「野呂の道」を人と畜力(牛・馬)によって運び出し、高瀬舟により輸送したのです。
今でも河岸のあった面影が点点と残っているのです。「備中」という行政地名は、南北通してみると備中の国のほぼ中央に位置しているところから備中国の国名を取ってつけられた地名なのです。備中国は古代七世紀後半に吉備国だった地域が三分され、都に近い方から備前、備中、備後が成立しました。その備中国の国名を記念して、「備中町」の地名としたのです。