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津々


津々

[地名の由来]

「津つ々つ」は、中井町にある西方と同じ大字地名で、津々川の上流、西方の北東に位置し、東は北房町中津井となっています。現在、本村前・後、追田、畑、津々羅、入野にゅうの、沢、横内などの小字地名をもつ集落があります。
津々川より北方にある入野、横内、沢、山際などの地区は古生代の石灰岩層となっていて、市内では代表的なカルスト(石灰岩)地形になっています。特に入野や横内付近は畑作地帯で白い石灰岩が点在するカレンフェルト(小さな石灰岩の柱)の風景が展望できます。皿のような盆地は、ドリーネ(水が地下へ浸透する凹地)が大きくなり連合して大きな凹地が広がって盆地状(ポリエ)になった場所なのです。

津々」は古い歴史のある地域で、近世に上・下中津井から別れて「津々村」となって現在の大字地名となっています。慶長五年(一六〇〇)、毛利氏の支配から幕府領となり、その後松山藩領、元禄六年(一六九三)再び幕府領、そして元禄八年から松山藩領となって明治を迎えています。江戸初期の石高は五三〇石余り(「正保郷帳」)となっていて、その後「元禄検地帳」には石高一〇五五石余りと記されていて、元禄頃(一六八八.一七〇四)には約二倍に増加しています。そして江戸時代後期の「天保郷帳」(天保五年頃=一八三四)にも変化がなくて一〇五五石余りと記録されています。

幕末頃の「津々」は戸数一一七戸、人数五一七人、村内東西二里半、南北一里半(「備中誌」)だったと書かれています。戦国時代、天正五年(一五三三)庄為資が松山城主となって以来、高資など庄氏が続いたのち、関ヶ原の戦い後、庄直清が帰農して「津々」に住んで以後、庄屋となって代々庄氏が世襲しました。明和四年(一七六七)には直庸(三左衛門・省三郎)が祇園寺再建棟札に名を残していて、本村には屋敷跡が今でも残ってます。津々には多くの史跡や文化財があります。

庄一族の津々加賀守範宗が居城したといわれる加葉山城跡が本村の北側の尾根にあり、鞍部に二つの掘切、壇上に腰曲輪が残った中世の山城の跡があります。また、村の鎮守の御嶽(みたけ)神社が祭られ板倉勝職が獣などの被害から守るために勧請したといわれ、境内には安政二年(一八五五)銘の堅牢(けんろう)地神が祭られています。古くから「津々」の中心となっていたのは、本村(本郷=中心になる地域という意味)で地名の由来の元になった地区であります。
それは、「津」という言葉はその土地の交通の便・不便を表す語で「津が良い」とか「津が悪い」などと使われました。本村の前・後は東西南北に通る道の交差した場所であり物資の集散地でもありました。「津々」の地名のように「津」という一音節の言葉には、同じ文字を重ねることが多いのです。

索引【つ】分類[地名の由来]登録日-2004/04/1818:29