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中井


中井
【なかい】
[地名の由来]

中 井 「中 井 」は、中央を津々川が西流し、西で佐 伏川と合流していて吉備高原を東西に刻む谷間 に位置し、東は北房町中津井、西は高梁川左岸 になる地域であります。津々川より北側の地域 は古生代の石灰岩層で、上野地区にはカレンフ ェルト(石塔原)の風景が見られ、またドリーネ (円形の凹地)も点在するカルスト台地となって います。 「中井」の歴史は古く、平安時代の「和名抄」 に英 賀 郡六郷の一つとして「中井郷 なかつい 」(「奈加都 井」と和訓が付く)の地名を挙げています。今の 上中津井・下中津井付近が中心で、中井町大字 津々西方も含まれた地域なのであります。中 世には阿賀郡六郷の一つとして「中津井郷」と 地名が記述され「中 津 井 荘 」という京都山科家 領の荘園にもなっています(「日本荘園史」= 吉川弘文館)。 近世になると「中井郷 なかつい 」に属していた上・下 中津井と津々西方が離れて別々になり津々 村・西方村となり現在の大字名として残ってい ます。そして、明治二十二年にはそれぞれ合併 して中津井村と中井村の二つになりました。

近世の津々村は、「寛永備中国絵図」に村名 があって、家数一一七、人数五一七人(「備中 誌」)で松山藩領でした。一方、西方村は、松 山城主三村の勢力下から毛利の武将庄勝 かつ 資も と の支配へと移り、のち代官小堀氏、そして松山城主 が代々移り変わり明治を迎えます。今に残る西 方の市場という地名は、近世中津井で盛んに行 われていた鯛市や鰤 ぶり 市がこの地に広がり連鎖市 いち として賑わったのです。堀切などが残る古見山 城跡のある山麓には玄賓の開創と伝えられる定 光寺(曹洞宗)、柴倉には光林寺(真言宗)、そし て三座神社などがこの地名の古さを忍ばせてく れます。下流の高梁川に臨む方谷駅のある場所 は、藩政の改革者山田方谷が漢字や書を教えて いたという長瀬塾のあった場所。この付近にあ る荷 か 出で は「中井」の玄関口だったのです。 「中井」という地名は、隣の中津井が古い時 代の訓のままを地名として残したので、文字だ けは古代の文字を使って「中井」としたのが地 名の始まりなのです。しかし、古代の「中井 なかつい 」 という言葉の本来の意味は、村の中心(「中居」) とか、なか(中)い(井)の意味で、川のある地域 ...... という意味からきた地名なのです。 (広報高梁より転記)