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遠原


遠原
【とおばら】
[地名の由来]

五十二遠原高倉町飯部から河こう戸ど川に沿って県道を西にさかのぼると、海抜五〇〇メートル前後の吉備高原の山々に挟まれた八キロ程の細長い平地に集落が点在する地域が宇治町「遠原」であります。江戸時代の寛永年間(一六二四.一六四四)には松山藩領遠原村でした(「寛永備中国絵図」)。その後、正保二・三年頃(一六四五・四六)の「正保郷帳」には、遠原村石高一六三石余りと記録され、元禄八年(一六九五)の「旧松山藩領新高帳」には飯部遠原と書かれています。そして、明治二二年宇治などと合併し、川上宇治村字遠原となり、昭和二九年宇治町となって現在に至っています。「遠原」の歴史は古く、中世穴田郷の地頭として土着した赤木氏は、吹屋や小泉の鉱山業に力を入れていたと言われ、その後になっても歴代松山藩主も吹屋往来筋にある「遠原」を大切にしました。「遠原」は、吹屋から御ご葉よう峠だわ(五葉峠・御用峠)を越え「遠原」を通り川湊の田井へ人馬や荷車で駄送する重要な物資の輸送路でありました。当時の道は、河戸川の南側の山すそに「七尺道みち」といわれる狭い吹屋往来が通っていたらしく屋敷跡や古道の一部、そして、神社の鳥居や墓などが残っていたり、飯部との境付近には茶屋の跡や「荷に方がた」の地名が残っていて「遠原」の歴史の移り変わりをしのばせてくれます。また、「遠原」の氏神として鎮座する遠原御前六社大明神は、大変古い歴史を物語る神社で、社伝によると和同六年(七一三)吉備津神社の丑寅うしとらに鬼の温う羅らを祭るみさき...(御前)様を勧請したといわれ、天正八年(一五八〇)に社殿が炎上したため赤木忠供が再建し穴田四か村の大氏神としたと伝えられる神社であります。

今でも藩主の水谷勝宗が享保二年(一七一七)に再建造営した木製の両部鳥居が立ち、ほとりに文政八年(一八二五)寄進の石灯ろう、自个寮价覆鯏个襪半―〆瞳の隋神門、境内に上がると菊や○印を彫刻した享保二年銘の手洗鉢などが残っています。三村元親方について活躍した笹尾城主近藤掃部介かもんのすけもこの宮に獅子頭などを寄進しています。現在、市の重要文化財に指定されている神像、隋身像、古い様式を伝える獅子と狛犬などなど「遠原」の御前宮の古さを感じさせてくれます。「遠野.」とか「遠原.」という地名はよく似ていて各地に見られますが「.野」は広く平らな平地を意味し、「.原」は、「遠原」のように高原上にあって平地に乏しい狭い場所に使われる場合が多く「山間に開けた遠い野」という意味に由来する地形地名なのです。(広報高梁