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町中に残る文化財


町中に残る文化財
【まちなかにのこるぶんかざい】

高梁のまちを歩くと、至るところで先人が残した数々の文化財に出会うことができます。頼久寺は、中国の元から帰国した臨済宗の高僧、寂室元光禅師が開山し、足利尊氏が諸国に命じて建立させた安国寺の一つであると言われています。そのなかにある国指定名勝の庭園は、備中国奉行・小堀遠州の作庭です。一般に「鶴亀の庭」と呼ばれ、禅院式枯山水蓬莱庭園であり、安土桃山時代から江戸初期にかけての典型的な書院式枯山水の庭園として知られています。

遙かに望む愛宕山を借景として、庭一面に敷き詰めた砂の波紋で海を感じさせ、そのなかに石組みの鶴島や亀島を配し、サツキの大刈込みで大海の大波を表しています。庭園内に配されたものすべてが調和し、一枚の絵画のように見る人を引き付けます。また、頼久寺には小堀遠州自筆の制札やゆかりの品なども保存されています。高梁は、江戸時代から備中の学問の中心地でした。

その当時の藩士の教育機関が藩校の有終館です。延享三年(一七四六)に藩主板倉勝澄が学問所を設けたのが有終館の始まりとされています。その後、何度か火災にあっていますが、そのたび再興され、藩主板倉勝静の代には校舎を新築し、山田方谷ら漢学者を起用して有終館の面目を一新しました。明治四年(一八七一)の廃藩置県で閉校となり、創立以来百二十六年の歴史に幕を閉じました。現在の高梁幼稚園の位置が有終館跡であり、山田方谷が手植えした黒松が今も残っています。 (高梁市市勢要覧)


寺院や武家屋敷などが建ち並ぶなかで、ひときわ目を引くのが現存する県下最古の教会、高梁キリスト教会堂です。この教会は明治十五年(一八八二)に創立され、順正女学校の創立者・福西志計子など偉大な求道者を育みました。順正女学校は、岡山県下で最初にできた女学校です。明治十四年(一八八一)、福西志計子向町の自宅に裁縫所を開いたのが始まりです。順正寮は校舎を寄宿舎に転用した建物で、現在は順正寮跡として県指定重要文化財となっています。

その後、順正女学校は変遷を繰り返し、県立高梁高等学校に統合され、かつての順正女学校の位置には順正短期大学が設置されています。薬師院は、寛和年間(九八五 . 九八七)に花山法皇が開いたと言われています。本堂の薬師堂は県指定重要文化財。元和十年(一六一五)につくられました。勾配のきつい大屋根とそれを支える組物、桟唐戸の彫刻など桃山風の特徴がよく表れています (高梁市市勢要覧)