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小堀遠州



[高梁ゆかりの人物] [高梁偉人伝]

小堀遠州(1579〜1647)


小堀遠州は天正7年(1579年)近江国小堀村に生まれました。
幼名を作助といい大人になってからは政一と称しました。遠州は幼少の頃より父新介正次の英才教育を受け、千利休、古田織部と続いた茶道の本流を受け継ぎ、徳川将軍家の茶道指南役となります。父の逝去後、備中松山城を預かり備中の政務を司どります。

慶長13年(1608)駿府城作事奉行をつとめ、その功により諸太夫従五位下遠江守に叙せられ、これより「遠州」と呼ばれるようになります。

書画、和歌にもすぐれ、王朝文化の理念と茶道を結びつけ、「綺麗さび」という幽玄・有心の茶道を創り上げました。遠州は、後水尾天皇をはじめとする寛永文化サロンの中心人物となり、また作事奉行として二条城、大阪城、江戸城西丸などの作事(さじ)奉行としても活躍し、禁裏(皇居)の造営などにも活躍しました。桂離宮庭園(京都)や大徳寺狐蓬庵(京都)、県内では大池寺庭園(水口町)などが有名です。

頼久寺の他、大徳寺孤篷庵、南禅寺金地院などが代表的な庭園です。美術工芸においては「中興名物」の選定や、高取・丹波・信楽・伊賀・志戸呂など国焼の茶陶の指導にも偉大な足跡を残しています。

また、中国、朝鮮、オランダなどの海外への茶陶の注文にも力を注ぎました。豊臣から徳川へという激動の時代を生き抜き、日本の美の系譜を再構築し、新たに近世初頭の明るい息吹と瀟洒を極める美意識を生んだ遠州は平和な時代へ向けて基礎を築いたといえます。



小堀遠州造園の庭 心字池(高梁高校中庭)


小堀遠州は江戸時代初期の備中国奉行です。江戸時代を迎えようとしていた慶長5 年(1600)に父小堀政次が備中国奉行として入国。
備中兵乱以後、備中松山城は修復が十分されておらず、通常政務を行っていた尾根小屋(現高梁高校)も戦乱で焼け落ちていたので、頼久寺を仮の住まいとしていました。慶長9年(1604)に父政次が死去し遠州が後を継ぎました。遠州は備中松山城を修復するとともに、尾根小屋跡に陣屋(居館)をつくり頼久寺から移りました。

また、城下町の町割りなどまちづくりの基礎を築きました。建築や茶道、造園などにも優れた才能があり、国指定の名勝・頼久寺庭園や尾根小屋の庭も造っています。右の写真の遠州像は頼久寺に伝来する2幅のうちの一つで、江戸時代後期に復古大和絵の画人岡田為恭が描いたものです。衣冠を着用し右側に太刀を横たえていますが、像の前に仕覆に収めた茶入を置いてあるのがいかにも遠州らしいものとなっています。

索引【こ】 分類[高梁偉人伝