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高梁偉人伝



[高梁ゆかりの人物] [高梁偉人伝]

歴史上の偉人


山中鹿之介


山中鹿之介の墓・落合町阿部】
「われに七難八苦をあたえ給え」と三日月に祈った尼子十勇士のひとり山中鹿之助は、天文14年(1545)に雲州富田月山城の麓に生まれました。数々の武勲をたて、毛利家に滅ぼされた主家尼子氏の再興を夢みて播州上月城に立てこもりましたが、 戦いに破れ、毛利輝元が居る備中松山に護送される途中、高梁川の渡し場で討ち取られました。時に34歳でした。

小堀遠州


遠州流の創始者、日本各地に名勝や城を建築した日本のレオナルドダビンチ
頼久寺にある国の名勝は遠州の作

水谷勝隆

現在の高梁市の基礎を作った恩人



山田方谷


大胆な財政改革により大赤字だった備中松山藩を全国有数の黒字藩に変えた人物。いま全国的にも注目を集めている。

西林国橋

備中地域で広く行われている備中神楽の創始者

板倉勝静

江戸時代最後の筆頭老中、戊辰戦争では新選組とともに蝦夷地で戦った。

原田亀太郎

幕末に活躍した天誅組に松山藩から唯一参加した人物。



留岡幸助

近代日本における社会福祉事業の先駆者である薇峰留岡幸助は1884年4月9日(元治元年3月4日)ここ高梁市に生まれた。少年の日キリスト教の説教を聴いて信仰をおこし、1882年高梁教会で洗礼をうけた。

福西志計子

明治時代、いち早く女性の教育、地位向上に尽力し順正女子学校を創設

国分三亥

弓之町出身。朝鮮総監督府法務局長、東京丸の内銀行頭取、二松学舎理事長など歴任。昭和37年名誉市民に推たい。

児島虎次郎

(こじま とらじろう、明治14年(1881年)4月3日 – 昭和4年(1929年)3月8日)は、日本の洋画家。

綱島梁川

郷土はもとより「早稲田の梁川」として日本を代表する文芸の思想評論家として広く知られている。

久保田宵二

昭和を代表する作詞家の一人。高梁市備中町出身。
当初は小学校の教師をしていたが、大正末期にプロに転向。



清水比庵


書家であり画家であり市長だった

平川唯一

「カムカム英語」で英語普及の草分け的存在と なった

森壽五郎

落合町福地出身。丸善石油取締役社長、阪神高速道路公団理事長などを歴任。
昭和53年名誉市民に推たい。

米川正夫

ロシアの文豪ドストエフスキーを少しでも読んだことがある人なら、御承知の通り東京外大教授でロシア文学者。

米川文子

間之町出身。昭和41年筝曲の最高芸術技能保持者として人間国宝に指定されました。同年名誉市民に推たい。

木口小平

日清戦争で死んでもラッパを話さなかった戦前の英雄

団藤重光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
団藤 重光(だんどう しげみつ、1913年11月8日 - )は刑法学者。正しくは「團藤重光」 。東京大学名誉教授、元最高裁判所判事。日本学士院会員。戦後の日本刑事法学の第一人者。

現代の偉人

加計勉

大正12年生まれ。高梁学園理事長、総長。氏の決断より平成2年4月吉備国際大学が開学し、学園文化都市づくりに大きく貢献。平成8年6月に名誉市民に推たい。

吉田能安

弓道家として古式に通じ、強弓での固物 かたもの 射い 貫 ぬき 、 管 くだ 矢や に練達した当代の実力者

水野晴郎

日本テレビ系の金曜ロードショウなど、各メディアへの出演、映画評論など月刊誌、週刊誌への執筆活動で有名

西田さゆり

幼少の頃からの歌好きで、岡山のカラオケ大会・カラオケ番組に数多く出場。中学生の時、岡山に来ていた作曲家・桜田誠一氏の耳にとまり「東京で本格的に歌の勉強をしてみないか」の一言で中学卒業と同時に上京。高校に通いながらレッスンに励み、'91.4.21、キングレコードより「夢追川」で新人デビュー。その年の新人賞を総なめ。その後4枚のCDをリリース。

川相昌弘

'81年夏、'82年春とエースとして2季連続甲子園に出場。同年のドラフトで読売ジャイアンツ4位指名で入団し、内野手に転向。'89年、ショートのレギュラーとなる。'90年、58犠打の日本記録樹立、'91には66犠打に更新。'94は打率.302をマーク。

平松伸二

高校1年の時、週刊少年ジャンプへの作品投稿をきっかけに上京、中島徳博氏のアシスタントとなる。その後「ドーベルマン刑事」(少年ジャンプ)連載開始。さまざまなジャンルに挑戦し、現在はスーパージャンプで活躍中。

平松政次

”カミソリシュート”の異名を持つ鋭い変化球を武器に名実ともに大洋ホエールズのエースとして君臨した。引退後はフジTV解説者。