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向町


向町
【むこうまち】
[地名の由来]

現在、高梁市立図書館や郷土資料館の裏 側(東側)に「向町 むこうちょう」という町通りがありま す。「向町」は城下町時代には「向丁」と 書いて、家中屋敷町の一つでありました。 元禄時代(一六八八.一七〇四)の初め頃 「向丁、長さ一丁五十三間 家数十八軒」 (「水谷史」=御家内之記)とあり、また、 正徳元年(一七一一).延享元年(一七四四) の松山藩主、石川氏時代の絵図(「松山城 下絵図 写 」高梁市立図書館蔵)によると町 の南端の隅に本 ・ 久・ 寺・ 、その向かいに御 ・ 先・ 手・ 組・ 借・ 用・ 地・ とか松村堀衛門など十二の家中屋 敷が描かれています。また、延享元年(一 七四四)の「松山家中屋敷覚」(高梁市立図 書館蔵)には、「鷹匠丁 たかしょうちょう 十四軒 内十三軒 家中屋敷 一軒木戸番」とあり、木戸番が 置かれていたり、鷹匠が住んでいて「鷹匠 丁」と呼んでいた時代もあったことが分か るのです。そして、伊勢亀山から板倉氏が 転封 てんぽう になると、石川時代の本久寺はなくな り、その跡に菩提寺として慧日山 え にちざん 安正寺 (本尊釈迦牟尼佛、曹洞宗)を置き、町の南 を固めています。今も文化年間(一八〇四 .一八一八)に再建された伽藍の安正寺が 向町から臥牛山を望む 残っています。幕末の天保三年(一八三二) には「向丁」から出火した大火が北の端の 本丁(内山下)や川端丁の方まで燃え広がり 武家屋敷町屋を総なめにしました。それ 以後の嘉永(一八四八).安政初年(一八五 四)頃の様子を書いた「昔夢一班」には、 安正寺と東側に七軒、西側に十一軒の屋敷 の氏名を挙げています。 また「向町」には、岡山県最初の女学校 といわれる順正女学校の前身である裁 ・縫・所・がありました。「設立者の福西志計子は向 町の東側伊賀谷川への出口の家に住んでい たんですよ」「この町は、今でも土塀や屋 敷の石など松山藩時代の城下町の面影を とどめていて静かな町なのです」などと長 年向町に住んでいた木口政子さん( 85 歳)は 語ってくれました。 「向町」という地名は、方向を示す「向 むこ・むこう 」 と同じ意味の地名で、「二の丸の御 ・ 根小屋 から見て外堀である伊賀谷川の向 ・こ・う・の・方・にある家中屋敷町という意味」から付いた 地名なのです。 (広報高梁