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巨瀬


巨瀬は現在の高梁市巨瀬町で、高梁川の支流、有漢川の中流域にあって、有漢川に沿った小規模の河成段丘面と吉備高原を開折する多短谷が枝状に見られる小起伏の高原地域とでなっています。「巨瀬」は平安時代の「和名類聚抄」に「賀夜郡巨勢郷」として書かれています。

中世になって、いろんな史料に「巨瀬」の地名が見えています。中世は巨勢荘という荘園でした。東鑑(吾妻鏡)寛喜三年(一二三一)六月二二日の条に「高野法印貞暁の遺領備中国多気荘(竹荘付近)、巨勢荘を西園寺実氏の子道勝に譲る」(「岡山県史」)と史料にあります。後の建治二年(一二七六)には「寂印書状」(「前掲書」)に「巨勢荘が幕府より仁和寺に返還された」という記録があって、室町時代に巨勢荘は、仁和寺門跡の領だったことが分かるのです。

後になると仁和寺領から相国寺領、そして応永一四年(一四〇七)長講堂御影堂(開山堂)領、年貢米は二〇石となっていました。また矢掛の洞松寺領時代もあった(「日本荘園史大辞典」)のです。南北朝時代の中頃には祇園寺も有名だったらしく、延文二年(三二五七)五月四日の年紀のある毘沙門天像右足柄銘に「備中国巨勢庄祇園寺二天第三度修理」(「岡山県古文書集」)と書かれた記録も残っています。

また「吉備津宮惣解文」(前掲書)に「備中国上方郡巨勢郷狩人二百人矢作親真」とあって、矢作親真が狩人二〇〇人を吉備津宮に献じたことが書かれ、吉備津宮がこの地の管理にかかわっていたことが分かるのです。安土桃山時代には「備中兵乱記」(「吉備群書集成」)に「古瀬」と表記しています。江戸時代になると「正保郷帳」(一六四五〜一六四六頃)に八か村を上げ、各村ごとに石高が記録されています。

幕末の「天保郷帳」(一八三四頃)では、古瀬八川、柳分、片岡、宮瀬、六名の各村の石高が書かれています。柳分村は八川村の一部と柳分村にあたり、松山藩領で、楮が御留楮(領主の直営林)として指定されていました。塩坪には市場が発達し、街村を形成しました。家数一一〇軒、人数四九三人(「備中誌」)とあります。宮瀬村は片岡村の西、和名谷、園尾などがあり、以前の三吉村・小条村がこの村に当たり祇園村も含まれていました。祇園山(五五〇m)には祇園寺があって、本尊は千手観音、現在の本堂は延宝六年(一六七八)水谷勝宗の再建になるもので、境内の延文二年(三二五七)銘の石造宝塔は県指定の重文になっています。

六名村は西方山間部にあって、松山藩領、家親には聖徳太子開基と伝えられる千住寺があります。以上の四か村が合併して「巨瀬村」となって明治八年〜二二年(一八七五〜一八八九)まで続き、上房郡巨瀬村となって昭和二九年高梁市の町名になっています。「巨瀬」という地名は岡山県内に美作市「巨勢」、美咲町の「小瀬」などがあります。仝殿綛訛欧竜霎氏からきた部民地名⊂狭という地形を意味した地名川瀬、川迫などの渓谷地形を意味し、古代・中世の地名として好字を地名にあてたもので、西日本に多い地名だという説です。△鉢が最もふさわしい「巨瀬」だと思うのです。