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有漢


有漢

有漢」は、高梁川の支流である有漢川に、四方を囲む四〇〇.七〇〇mの吉備高原の山々から小さな谷川が枝状に流れ出る細長い盆地状の地域なのです。北東には備前、備中、美作の接点となる三飛みとび峠(四六〇m)があり、有漢の川関から落合へ越す落合往来の重要な峠でありました。

その南には、頂上が尖り海抜五〇八mで中世に砦のあった飯の山があり、ふもとから有漢川へ川関川が流れて合流しています。有漢の東、旧加茂川町の境には笹目峠(三七〇m)が、その南、旧賀陽町との境に太平山(六九八m)があって谷川が有漢町へと流れ出ています。権現山ごんげんやま(五九九m)は、有漢のシンボルで「有漢富士」と親しまれ、権現様が宿る山として悪魔ばらいや火伏祈祷など行っていた信仰の山でありました。北の四峰山(四ッ畝山)(五一三m)は北房町と境を接し、旭川と高梁川の分水嶺になっていて昔の大山道沿いに長代川が流れ中央の茶堂付近に出て有漢川に合流しています。

有漢」の歴史は古く「和名抄」に有漢郷...の地名が書かれ「宇賀邇うかに」とか「宇万うま」と和訓がつけられていて、この「有漢」の地一帯が当時の備中国賀夜郡有漢郷に比定されています。後の平安時代、応永元年(一三九四)の書物を文禄五年(一五九六)に写した「吉備宮惣解文」(岡山県古文書集)に「上房郡三郡」として「有漢郷から釘八連が櫻井尚春により納められた」などと、「有漢」の地名が書かれています。中世には、京都山城天龍寺領の「有漢保」という荘園でした(「講座日本荘園史」)。承久の乱後に功のあった相模国三浦一族の秋庭重信が有漢郷を与えられて入部し、中央部に残る台ヶ鼻城跡は重信が築いたといわれています。

その後、仁治元年(延応二年=一二四〇)備中松山城を築き備中中部を支配したといわれています。今までも墓や屋敷の石が残っています。近世は、上房郡に属し慶長五年(一六〇〇)幕府領、その後元和三年(一六一七)から松山藩領、元禄七年(一六九四)より再び幕府領、そして元禄八年から松山藩領となり石川氏が延享元年(一七四四)転封後は中津井陣屋の支配を受け幕末を迎えています。近代になると、有漢村と上有漢村が昭和三一年に合併して有漢町となっています。「有漢」は「歴史の宝庫」といわれる地で散策すれば各地区に古い地名が残り、遺跡、神社、石碑などの文化財も多く分布していて歴史のロマンを感じる魅力のある地域なのであります。「有漢」という地名の由来については、旭川支流の宇甘うかん川は「うかいがわ」といわれ、宇甘うかい(御津町)という場所も残って鵜飼地名だといわれていますが、

 有漢」もこれと同じ意味で諸国のアユ産地におかれた部民、鵜飼部うかいべから変化した地名という節が有力なのです。

地理学者の吉田東伍は「有漢」も「ウマ」と読み、「漢」の字は川を表わし天の川即ち天漢という「ウ・アマ」の略なので今は「ウカン」と読むようになり「ウカイ」となったという説を唱えています。
「ウガ」(崩壊地形)に文字をあてて音転した地名だという説

ぁ屮Ε沺廚半里靴討い燭里現在の「ウカン」の呼び方になって馬を飼育していた土地の意味だという説(「日本地名語源事典」)などがいわれていて、地名は歴史を語ってくれていても果たしてどれが正しいかとなると大変難しいのであります。

<情報元:広報高梁平成16年12月号>