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山田方谷物語


今年は山田方谷先生の生誕二百年にあたります。

先生は文化二(一八〇五)年、高梁市中井西方に生まれ、幼名は阿燐、名は球、字は琳卿、通ありんきゅうりんけい称は安五郎、普通、号の方谷で呼ばれています。先生は江戸時代末期に負債で苦しんでいた備中松山藩の財政を建て直し、民生を安定させ、学問を大いに勧めた人として有名です。その徳をしのんで明治四十三年中井方谷園が盛大に開園し、翌年方谷林公園、大正三年方谷橋、昭和三年方谷駅と先生の名を持つ施設が誕生し、昭和五十一年高梁市郷土資料館前に没後百年を記念して先生の銅像が建立されました。先生の威徳をたたえて、没後五十年に高梁方谷会が生まれ、現在各地で方谷会や研究会が出来て方谷先生の業績に学んでいます。

(以下敬称略)一、修業時代―学ぶ―方谷の父は先祖が武門であったのに農民になったので、学問による家名の再興を強く願い、長男の方谷に期待して、小さい時から学問の手ほどきをしました。母はそばで頭を撫でながら「いとしい児よ、な必ずお父さんの志をなしとげるのだよ。でも時の勢いに乗って独りで走りすぎると、つまずくものだよ。お願いだから生涯を立派に終えておくれ」とやさしく諭しています。

さと方谷は幼少の頃から書を学び、特に太字が立派で、四才の頃、板に大書して各神社に奉納しました。中井公民館には「天下太平・国土安全」の奉納額があり、親として国の平安を願う気持ちがうかがえます。五才で親元を離れて新見に行き、優れた儒学者丸川松隠しょういんについて学問を学びます。九才の時、客が「何のために勉強するのか」と問うたのに対し、即座に「治国平天下」と答えて驚かせています。当時学問は儒学、厳密にいうと朱子学です。方谷はその真髄を端的に答えたので、「松隠塾に神童あり」ということになったのです。

しかし、学習の基礎がやっとできた十四才で母を、十五才で父を失った方谷は一家の生活を支えるため家に帰らねばなりませんでした。農業と製油業に励むかたわら学問を忘れず努力する姿が藩主である板倉勝職に聴こえ、かつつね二人扶ににんぶ持(一日米一升)が与えられ、ち有終館での学習を認められ、藩のため尽くすように言われました。この奨学金をもらったことで念願の遊学が可能となったので、学問・人間を磨くために二十三才と二十五才の時半年ずつ、松隠の学友、京都の寺島白鹿の門に入って勉学にいそしんでいます。京都から帰ると藩から苗字帯刀を許され、八人扶持を与えられ、中小姓格、有終館学頭になかこしょうかく命じられています。

ついに父が念願した武門に入ることが出来たのです。しかし、方谷はこれに満足せず、あくまで自分の修業のため学問研究をめざしました。八人扶持をもらったことで長期遊学が可能となり、二十七才から二年間、白鹿のもとでの三度目の京都遊学をします。この時自分で物事を判断し行動する陽明学を知り、その学習を深めるため三年間江戸の佐藤一斎の塾で勉強したのです。この塾には天下の俊秀が集まっていましたが、方谷は学力・人物が認められ塾頭を命じられており、佐久間象山とこれからの世の中には洋学と儒学のどちらが有用かなど毎夜激論したといわれています。

このように自分の心を鍛え社会を良くするための学問追求で学ぶべきことを学び、天保七年学を終えて帰国しました。その時は三十二才になっていました。(文・児玉亨さん)

情報もと 広報たかはし