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荒神町


荒神町
【こうじんちょう】
[地名の由来]

荒神町」は、高梁の城見通り、柿木町の南 結(間之町北結)から西の鍜冶町へ通じる東西 の町通り(小路)に面した町であります。 この町は、江戸時代から備中松山城下町の町 割りの一つとして鍜冶町より東側一帯に下家中 屋敷町として、甲賀丁、八幡丁、柿木丁、建丁、 大工丁などとともに取り立てられた町の一つで した。城下町家中屋敷町は、池田氏の頃(一 六一七.一六四一)から正保年中(一六四四. 一六四八)までには出来ていたらしく「備中国 松山城絵図」(「正保城絵図」=国立公文書館内 閣文庫)にも町通りが描かれています。また、 「水谷氏」=『御家内之記』には『元禄七年(一 六九四)戊 つちのえ 正月改』として「長さ四八間五尺、 家数五軒、東に三軒」と書かれ、石川時代(一 七一一.一七四四)の「松山城下絵図○ 写」(市図 書館)には、柿木丁に接する東側の角に同心長 屋(のち同心丁へ移る)が、町筋の北側に寺院 や荒神社が描かれ家数も元禄頃と同じになって います。後の延享元年(一七四四)の「松山家 中屋敷覚」(市図書館)には、家中屋敷も増えて 一三軒、給人屋敷一軒、そして幕末の嘉永二・ 三年頃(一八四九.一八五〇).安政初年(一 八五四)頃には、北側に三軒と南側に八軒の家 中屋敷の人名と普門山観音院(真言宗)と荒神 社が記録されています(「昔夢一班」)。竪町型 ... の城下町の中では、八幡丁、甲賀丁とこの「荒 神丁」だけが、横町型 ... の町割りになっていて、 町筋も鍜冶町近くになると狭くなって、今でも その面影が残っています。 「荒神丁」の地名の由来は、荒神社がまつら れていたことによるもので、古くから祟りやす く荒ぶる性格を持ち祭祀者を庇 ひ 護する強い力を 持つ神、かまどの神、厄払いの神、地域の守護 神などとして地域の人々の信仰を集めていたの です。今に残るかわらぶきで大きくそった屋根 には「荒」の文字が鬼がわらやあぶみがわらに 印され、手洗鉢には「濯水 たくすい 」「安政五戊午年 つちのえうま 四 月吉日・南町下若連中」とあり、明神型の石鳥 居にも明治三二年の銘が残っています。今の社 は天保十年の火災で焼けた直後に再建されたら しく天保十年の棟札が残っています。 「荒神町」という荒神信仰による地名は、特 に中国地方に多い信仰地名の一つで、永い年月 をつみ重ねて、昔の人々が信仰の足跡を土地の 名に刻んでいるのです。 (広報高梁