トップ 差分 一覧 ソース 検索 ヘルプ RSS ログイン

鍜冶町


鍜冶町
[地名の由来]

鍜冶町鍜冶町」は、江戸時代の松山城下にあった六町の町の一つが、現在にそのまま残っている地名(町名)で、日本の城下町のうち四十七か所に見られる職人町まち地名なのであります。今でも高梁は、城下町の町割が残る下町通りに並行した「竪町たて まち通り」の一つであります。「鍜冶町」は『新町・本町元和げん な二年に出来、下町鍜冶町元和四年に出来…』と「松山御城主暦代記」(市図書館)の小堀氏の記述のところにあることから元和三年(一六一七)入部した池田長幸が翌四年に取り立てた町であることが分かります。

幕末の嘉永二・三年(一八四九・五〇)から安政初年(一八五四)頃の絵図(「昔夢一班」)には、東側に七通りの横丁(小路)と西側に四通りの横丁が描かれていて、東側の家中の町とを結ぶ横丁通りが初期の頃より増えています。ところが、東側にあった家中の町とは、一つで隔たっていても交際することが出来なかったし、言葉も鍜冶町は地元出身者が多くて方言を使う者が多かったといわれ、家中に住む人々とは、言葉遣いが違っていたのです。そして、横丁通りは東西の見通しを悪くした「鍵型」の小路が多く、現在でも残っています。

また江戸時代の「鍜冶町」は南の東町を除いた「五丁の町」の一つで『往古より無の御免許の地にて…一切町方へかかり侯の事御座無く侯』「(松山六ヶ町差出帳)」といわれ、地子や公役などが免除された特権をもっていた町でした。『「水谷史」=御家内の記』に元禄七年(一六三九)正月改として町の長さ三町一八間(約三六〇m)、家数一四四軒と書かれ、その後、延享元年(一七四四)「前掲暦代記」には寵数二一九、家数一四二、とあり「前掲差出帳」(市史)には、「人口六九一人(男三六一人 女三三〇人)世帯数二三〇と記録され、町家も間口ま ぐち三間以下が六六%、三間.五間が三〇%などとあって、新町に次いで狭い間口の家が多かったことが分かります。そして、町通りの幅は現在と同じく三間でありました(「備中松山城及其城下」)。

延享元年頃の有力商人は町年寄の浜野屋三郎兵衛だったようで、役料として米五俵、そして鍜冶町炭口銭を扱っています(「市史」)。幕末になると「屈指の商家」として、年寄備前屋作治、紺屋孫兵衛・大工木屋源兵衛など六軒の商家がありました(「昔夢一班」)。「鍜冶町」という地名は、ほとんどが中世から近世にかけて成立したもので「金打かねんち」から出た金属を打ち鍛えて加工する意味を表現する地名なのですが松山城下の場合、鍜冶、鋳物師・大工・紺屋などの手工業者の多く住む町でその代表的な職名から名付けられた町名なのです。