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方谷先生を訪ねて


方谷先生を訪ねて

有終館学頭時代−教える−天保七(一八三六)年九月、三十二才の山田方谷は三年の遊学期間を終え、藩主勝かつ職に随って帰藩しました。十つねしたが一月に有終館の学頭(校長)に命じられ以来十数年、藩士教育に専念することになります。

方谷が学び教えた儒学は、修己治人の学といわれ、孔しゅうこちじん子・孟子(二千四、五百年前)が乱れた世の中を平和で安心して暮らせる社会にと説いて歩いた学問で、修業により徳のある人間になり、国を治め、平和な社会をつくる、治国・平天下を目指した学問です。彼は先人の教えを学び、その知識をもって正しい行いをする朱子学から、実行に際して自分の心の判断を重視し、誠意をもって物事に対処する陽明学へと進み、中国の歴史を研究し、多くのことを学びとりました。

その上で幕府の教育方針に従って朱子学を教えました。板倉勝澄(初代)は松山藩かつずみ主となってまもなくの延享三(一七四六)年、御殿坂のほとごてんざかり(現日新高校校庭)に学問所を開き、四代勝政はそれを有終館と命名し、藩校としてゆうしゅうかん確立します。天保二年の火災の後は中之町(現高梁幼稚園)に場所を移しました。

しかし方谷が学頭になった当初は、藩士の学習意欲は乏しかったと言われています。一方、彼の指導を求めて遠近から集まる学生のために、御前町に賜った自宅に牛麓舎ぎゅうろくしゃ(塾)という家塾を開きましたが、松山藩では家塾を知る者は少なく、数十人が常に入塾していても藩士で受講する者は文弱とそしられ、書物を懐に隠して通ったと言われています。

牛麓舎の塾規に「職業三条―立志・励行・遊芸」が掲げられ、学問を専門に学ぶ人は、まずしっかりした志を立て、学問修得に専念し、教養を高めて詩文など芸の世界で楽しむことを目指し、わき目も振らずに勉学する者だけに在塾を認めました。特に冬は夜の時間が長いので、勉強するのに適しているから励むようにと指導しています(江戸時代は日の出と日没の間を等分して時刻を決めていたので、冬は昼の時間が短く、自習する夜の時間が長い)。

牛麓舎で学んだ人々のなかに進しん鴻渓や三島中洲がいます。彼こうけいみしまちゅうしゅうらは、後に藩士となって藩の要職を歴任したり、学頭となって方谷の志を継いで活躍しました。有終館の学習は、特に勝静かつきよが藩主になってから「文なき武は誠の武にあらず」と剣、弓などの武術と共に文(儒学)の学習に力を入れるようになりました。

藩士の子弟は七才以後、全員に有終館学習を義務づけ、文武で優れた人は更に藩費で遊学をさせています。有終館で学んだ人々が後に藩政を担い、大きな力を発揮しました。勝静は寛政の改革をした松平定信の孫にあたります。伊勢桑名藩より松山藩主の養子として迎えられ、二十二才で松山に入ります。彼の教育係として奥田楽山(前おくだらくざん学頭)と方谷があたりました。

方谷は勝静について「文学は家中及ぶ者無く、武術は毎日なされ(中略)承りますとこれまで夏の昼寝と冬の暖炉はなさいませんとのこと」と伝えています。方谷は「資治通鑑綱目」としじつがんこうもくいう歴史書から中国の唐の君主の事蹟を教えて討論し、君主としての政治の心構えを説き、藩政についても意見が交わされました。

そうしたなかで君臣、師弟として心が固く結ばれました。この関係をのちの人が「水魚の交わり」と言ったほどです。やがて勝静が藩主となると、方谷は藩の行財政全般の仕事を任かされることになるのです。