トップ 差分 一覧 ソース 検索 ヘルプ RSS ログイン

御前町


御前町
[地名の由来]

御前町「御前おんざき町」は、城下町時代の名残りをとどめる町筋の一つで、南は頼久寺町に接する美濃部坂、北は小高下川に沿う地域、そして、東の秋葉山の西麓に鎮座する御前神社の下を南北に通る竪町たてまち通りの区域であります。

江戸時代は「御前丁」と書かれ家中屋敷町の一つでした。板倉氏の延享元年(一七四四)頃の「松山家中屋敷覚」(市図書館)には、家中屋敷一一軒、一棟長屋二軒、鐘楼堂一か所、明地一か所が記録されています。幕末の嘉永二・三年(一八四九・五〇)頃より安政初年(一八五四)頃には、谷川通りに山田安五郎(方谷)や進昌一郎(鴻渓こうけい)の名が見え、谷川通りと御前通りが交わる角には、谷三治郎・三十郎などの名が上げられ(「昔夢一班」)ていて当時をしのばせてくれます。

山田方谷はこの地に私塾牛麓舎ぎゅうろくしゃを開き、漢学を教えていたといわれ、進鴻渓や三島中州などの儒学者達もここで学んでいます。また、旗奉行だった谷三治郎の長男三十郎は、「御暇ひま」を取らされた後、大阪へ出て弟の万太郎・周平(昌武)とともにそろって新撰組に入り元治げん じ元年(一八六四)の池田屋事件で活躍しました。「御前町」には、地名のもととなった。

御前神社(御前大明神)があります。吉備津神社の艮御崎うしとらみさきを勧請した神社で猿田彦神などを祭神としています。社伝によると宝亀ほう き五年(七七四)創建といわれ、松山城の鎮守として代々城主の尊崇すうを受けてきました。はじめには、小高下にあったものを池田長幸が元和げん な三年(一六一七)に再建し、同七年(一六二一)に現在地に移したといわれています。

その後、天保てんぽう一〇年(一八三九)の大火で家中屋敷とともに焼失したので、弘化二年(一八四五)になって板倉勝職かつつねが再建しましたが、現在の本殿は明治一四(一八八一)になって立て直されたものです。参道登り口には、文化七年(一八一〇)の石鳥居と慶安四年(一六五一)に水谷勝隆が城下の武士や領民に一二時刻を知らせるために奉納したといわれる木造の鐘楼堂が立ち、参道を登ると右手に祭礼の時には大変にぎわった相撲場や見物席、左手の神社に参ると拝殿の後に千鳥ち どり破風は ふの屋根、流れ向拝こうはいに唐かち破風を付けた本殿は見事なものです。

また、境内には、天和三年(一六八三)の銘が刻まれた石灯籠や玉などあり、「御前町」の町名となるにふさわしい神社であります。「御前町」の地名は、「御前神社が鎮座するところ」から由来するものですが、古くから神社や寺はその土地を守ってくれると考えた信仰から生まれた地名で、神社の通称をそのまま地名にしたもので、文化地名の中では、もっとも数の多い地名の一つなのです

索引【お】 分類[地名の由来]