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留岡幸助の生涯


留岡幸助の生涯

今月号から5回シリーズで、高梁市が生んだ社会福祉家で非行少年の更生に尽力した「留岡幸助」の生涯について、市文化財保護審議会長・児玉享さんに執筆いただきます。高梁総合福祉センター前の公園に「留岡幸助先生.顕彰碑」がある。

この碑は近代口本における社会福祉事業の先駆者として留岡幸助を讃えたもので、高梁の生んだ偉人の生涯を紹介している。一、少年期の留岡幸助留岡幸助が生まれたのは明治維新の4年前の元治元 (1864)年で、高梁は松山藩の城下町として、備中の中心地として栄えていた。藩主板倉勝静は江戸幕府の老中としても活躍、その絶大な信頼のもとに山田方谷が藩の財政・人心を立て直し、安定した政治が行われていた。

しかし、江戸幕府が慶応 3(1867)年に大政を奉還した後、戊辰戦争が起こった。この混乱期に松山藩は朝敵とみなされて、一時備前藩の支配下におかれた。明治2(1869)年に高梁藩として復活したが五万石は二万石に減らされ、その後明治4年の廃藩置県によって藩はなくなり、多くの藩上は東京など他地域に職を求めて移転、商人や職人も需要の多.い都市部に移るなど激動の時代となっていった。 幸助は高梁新町の髪床屋(理髪店)をしていた吉田万吉・とめ夫婦の4番目の子供として生まれた。

南町で米商人をしていた、親戚の留岡金助・勝夫婦に子供がなかったので、生まれる前よりの約束で、生まれるとすぐに養子となった。留岡夫婦はちようど近くの新丁(現弓之町) に住む上族、国分胤之夫婦に頼み、もらい乳をした。国分家で 三亥(法律家、高梁市初代名誉市民)が生まれたばかりで母乳がよく出るので、幸助にも分け与え、可愛がっていたという。幸助は8歳から近くの新丁の伊藤という寺子屋に通った。

四民平等の時代となって武上の子も町人の子も一緒に学んだが、身分制は依然として意識や生活の上で存続しており、旧藩上の子は木刀を腰にして通学していた。ある口寺子屋帰りに口論となり、木刀でなぐられた。町人の子の幸助は素手であったので、木刀を握っている相手の手をつかんでかみつき、藩上の子は泣きながら帰っていった。翌口幸助の父は相手の家に呼びつけられ、出入りの差し止めを言われた。有力な得意先を失った父は幸助を激しく叱り、散々にたたいた。幸助は防衛上かみついただけなのに、これほどの仕打ちをする旧上族に激しい敵意をもつようになった。

まもなく学制が公布され、全国に小学校ができると彼も小学校に通うようになるが、12歳の時にやめて行商に入り、商人の第一歩. を踏み出すことになる。しかし、行商中も背中の籠に漢学の本を入れて休む時は読み、治国平天下を目指したというほど学問好きで、正義感が強く、年に何回か来る軍談や講談が大好きで必ず聴いていたという。新しい思想に興味関心を持ち、自分が思ったことにつき進む意志の強い子供であった。 (文・児玉享さん)

広報高梁18年11月号