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留岡幸助



[高梁ゆかりの人物] [高梁偉人伝]


留岡幸助先生顕彰碑より

長野士郎書

近代日本における社会福祉事業の先駆者である薇峰留岡幸助は1884年4月9日(元治元年3月4日)ここ高梁市に生まれた。少年の日キリスト教の説教を聴いて信仰をおこし、1882年高梁教会で洗礼をうけた。きびしい迫害のなかで信仰を守り、京都同志社に学んで伝道の業に進み、1891年には北海道にわたって集治監の教諏師をつとめた。

1899年、少年教護の施設として東京巣鴨に家庭学校を創設して国民の力をかりた感化救済事業を創始し、1914年にはさらに北海道遠軽に家庭学校分校現在の北海道家庭学校を開き生涯を「ただこの一事を努める」ことに捧げ「一路白頭二到ル」業をこの世に示し、1934年2月5日東京で没した。この度高梁市内の各団体のよびかけにより映画「もうひとつの少年期」を上映した利益金をもとに碑を建てて高梁の生んだ偉大な先駆者を偲びかつは先人の生誕100年没後50年の記念とするものである。同志社大学教授杉井六郎しるす。

碑陰に
1985年4月吉日

留岡幸助顕彰碑建立実行委員会


キリスト教に入信、同志社神学校を卒業、一時丹波教会にあったが、1891(M24)北海道空知監獄の教誨師となる。 94渡米し、感化事業を学び、98巣鴨監獄の教誨師となり、99巣鴨に不良少年感化のための家庭学校を創設、北海道や神奈川県下にも分校を設けた。