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本町


本町
【ほんまち】
[地名の由来]

今回取り上げた「本町」という地名は、城や城 下に関する地名の一つで、地域の人々には古くか ら親しまれたおなじみの町名であります。 「本町」の歴史は古く、江戸時代の初め備中国 奉行として小堀新助(正次)、小堀作助(政一) が、この松山の地に赴任し、元和2年(1616) に「本町」と「新町」を取り立てた(「松山城主 歴代記」=市図書館)町人町で、「五町の町」の 一つでした。 当時「本町」には、商工業者誘致政策で、多く の御用商人を住まわせました。「無高之地子御免 除之地」・「村継之送リ物又ハ御用之人足」(「松 山六ヶ町差出帳」=市図書館)などと、地子 じ し (税 など)が免除された町でした。 「屈指の商家」(豪商)が川の手側には、 40 軒 の内 14 軒、山の手側には、 45 軒の内 15 軒(「昔夢 一班」・「松山城下屋敷図」=市図書館)。元禄 7年(1694)頃には、「本町」の町の長さ三 町、家数 82 軒、東側 42 軒、西側 40 軒(御家内之 記=「水谷史」)。延享2年(1745)板倉氏が 入国した頃は、家数百一、町の長さ三町四間余り でした(「高梁市史」)。いずれにせよ「本町」は、五町の内の他の町に 比べて大規模な間口を持ち、町通りから見た姿よ り奥行きが大変長く、主屋、中庭、離れ、蔵など を持つ大型の町屋が多く建ち並んでいました。こ の間口や家数は、池田氏の時代、水谷氏の時代な ど、時代によって宅地の統合・分割が行われて変 化し異なっています。

そして、「本町」が経済活動の中心となり栄え た原因の一つには、町の川側(西側)に河岸 か し (川 湊)を持っていたことであります。高瀬舟の発着 も盛んで、猿尾という防波堤施設もあり、高い石 の上に土蔵や商家が建ち並んで、所々に埋 うずみ門 があって河岸から石段で屋敷に出入りが出来るよ うになっていたり、石畳の道が町裏に通って、高 瀬舟からすぐ荷の積み下ろしができるようになっ 「竪町型」の面影を残す本町通り ていました。 この町の御用商人たちは、町年寄、穀物取り立 て、舟運上取り立て、舟口銭、舟支配、御用御買 所(「松山六ヶ町差出帳」)などの役についていて 特権を持っていました。 繁栄していた「本町」も天保3年(1832) には、大火で町がほとんど焼失してしまい、現在 昔の面影を留めている町屋の出格子・漆喰壁・生 子壁・板のれん・厨子二階、そして町並みを引き 締める虫子窓などは、それ以後のものであります。 幕末になると屈指の商家も 33 軒の内 22 軒が転出ま たは廃絶(「昔夢一班」)。その後も廃藩置県にな ると一層没落や衰退が増加するのであります。そ して、昭和の初め頃まで活気のあった「本町」も 伯備線の開通により衰退したのであります。 「本町」は城下で最初に取り立てられた「三の丸」に当たる町で、御根小屋を中心とした「二の 丸」に最も近く、惣門(大手門)から通じる城下 町のメイン通り(大手筋)に当たる重要な町通り で、竪町 たてまち 型の城下町になっています。町屋は通り を挟んで、川側・山側どちらも京型の短冊型 ・ ・ ・ の町 割で、横丁 ・ ・ (小路 しょうじ )は見通しのきかない小路で通 じ、生活道路として使われた町筋が今でも残って います。 「本町」という地名の意味は、大手門 ・ ・ ・ の近くに あって城下の中心になる町で、早くから開けた有 力町人のいる町という意味なのです。城下町の 「元町」とも言えるのであります。 (広報高梁