トップ 差分 一覧 ソース 検索 ヘルプ RSS ログイン

方谷先生を訪ねて=3=


方谷先生を訪ねて=3=

元締時代―財政をたてなおす―山田方谷を取り立て有終館の学頭にまで用いた藩主板倉勝職は嘉永二(一八四かつつね九)年八月に亡くなりました。恩義を強く感じていた方谷は五十日間喪に服し、隠居を願い出ました。ところが十一月、新しい藩主の勝静に江戸藩邸に呼び出さかつきよれ、藩の元締と吟味役という藩財政を一手に担う役を命じられたのです。

困惑した方谷は固く辞退しましたが許されず、十二月末に遂に引き受けることになったのです。方谷四十五才の時です。しかし若い婿養子の勝静と農民出身の学者の方谷による藩政の実施に対する藩士たちの不安と反感は強く、「御勝手に孔子孟子を引き入れて、なおこのうえに空にするのか」という狂歌が詠まれたほどです。しかよし、勝静は藩財政をたてなおすには方谷の起用しかないという強い意志でその反対に屈せず、方谷への批判は一切許しませんでした。

この藩主の信頼に答えるため、方谷は藩の会計簿など必要な資料を徹底的に調べて現状を的確に把握し、藩のたてなおしの策を作りあげ、藩主に示して実施していきます。彼の藩政改革の要点をあげると、一、上下節約二、負債整理三、藩札刷新四、産業振興五、民政刷新六、文武奨励でした。

このうち、早急な改革を要した、一.三についてまず述べますと、一、上下節約松山藩は過去水谷氏の断絶で大きく領地を失って名目は五万石ですが実質二万石弱で莫大な負債を抱え辛苦していました。藩主勝静は嘉永三年六月、松山に帰藩すると直ちに家臣を集め倹約令を命じ、期限を定めて藩士の給与の一割カットを断行しました。衣服は綿織物、櫛などは木・竹に限り、足袋をはくのは十月より四月、飲食は一汁一菜、結髪・家政は人手を借りないなど厳しくぜいたくを戒めています。

さらに奉行・代官などへのもらい物はすべて役所に持ち出し、もらい物は入札で希望者が買う。巡郷の役人へは酒一滴も出すに及ばず、役人への接待はせず、役人と商人が役所以外で会うのを禁じ、賄賂は厳重にわいろ禁止しています。藩主も綿服、粗食で通し、方谷も給与を一部返上しています。

二、負債整理十数年前に起きた二度の城下の火災のためか新しい借財が多く、十万両に達し、年収の二倍にも及んでいました。その上利息が年間八、九千両になりました。そこで方谷は綿服で大坂に出かけ、金主の商人に藩の帳簿を示して実情を話し、これ以上の借銭はしないことを約束した上で従来の負債は新旧に応じて十年から五十年で返済したいと申し出ました。借金の一部帳消しや、利息の減免を受けることもあって、大量の借金を大幅に減らすことができました。

また大坂の蔵屋敷を解消して、年間一千両の経費削減に成功しただけでなく、藩米の販売権を藩が掌握して、藩財政を有利に展開しました。三、藩札刷新天保時代に大量に発行した新五匁もんめ札がきっかけとなって松山藩の藩札の評判は悪く、にせ札も出まわり信用はなくなっていました。方谷は就任した嘉永三年、発行時積み立てた準備金すべて使って藩札を買い上げ、未使用のものも含めてこれを焼却しました。

焼却は嘉永五年九月五日、高梁川下町対岸近似川原と定めて町民に触れを出し、多数の見守るなか、朝八時から夕四時まで、元締役をはじめとして関係役人が総出動して処分しました。かわりに新しく永銭を発行、両替を励行しました。永銭には百文、十文、五文札があってそれぞれ、十枚、百枚、二百枚で金一両に引き替えるとの明文が裏に記されていたので藩札の信用は回復し、藩内はもとより他藩にまで流通するようになり、明治維新まで使用されています。

(文・児玉享さん)
★情報もと:広報たかはし