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鍋坂


鍋坂

市内落合町福地の字地名(行政区分名)に「鍋坂」があります。国道三一三号を成羽川に沿って西に上り、成羽橋手前を右に取って福地に入る、すぐの集落が「鍋坂」なのです。この付近は成羽川と支流の福地川が合流する地点で、享保六年(一七二こ閏七月の大洪水のとき「鍋坂の海(街)道破損して、漸く根の竹にとりつきいわ(岩)あれ(荒)たる所ははひ(い)わたるほと(程)なり」と江国掃散なる人が記録を書いていて(「江国掃部暑日記」11「岡山県古文書集」)当時、成羽川の洪水によって「鍋坂」が大被害を受けたことが記録されています。

北は福地白水地区、東は福地境谷地区や阿部が、南は成羽川を隔てて対岸に成羽町渡雁、西には成羽の町が広がります。「鍋坂」には、成羽川の差別浸食によってできた分離丘陵(ケルンバット)を思わせる海抜一六六mの小さな尾根(小突起部)が南に突き出ていて、眼下に成羽川が湾曲して流れ、山の鞍部は、つまり土地のたわんだところで山越えの要所となり峠(たわ越えの意)となっている地形なのです。

この地形が「鍋坂」という地名の由来になっているのです。「鍋坂」は以前の福地村(戦国期の「備中兵乱記」、「寛永備中国絵図」11白地村)に属していて、幕府領時代より以後になると元和三年(一六一七)成羽藩領、万治元年(一六五八)から旗本山崎領(後・成羽藩)そして明治二二年(一八八九)落合村福地となりました。

鍋坂」は古くから鍋坂峠といわれる峠で東に番所のあった松山藩と成羽藩の境界であった境谷から、松山・成羽往来がこの峠を越えて「鍋坂」の柳瀬へ出て、渡し舟で対岸の成羽の町へと渡っていました。柳瀬には今でも船着場の河岸や猿尾が残っています。柳瀬という地名は成羽藩の簗場があったところから簗瀬(柳瀬)の地名が残っている場所なのです。鍋坂峠には辻堂である観音堂があって堂の中に本尊の聖観音座像の石仏が祭られ、横には明治一三年銘の地神様や大きなむくの木が残り、地域の人々の休憩の場所として大切にされ、地元の人々はこの峠を満楽園と名付けています。

また、南の尾根(分離丘陵)に上がると、眼下に成羽川成羽の町、そして愛宕山や鶴首山が、東には境谷地区や対岸の渡雁が一望できる最高の"展望台"なのです。以前この頂上には千手観音菩薩を祭る(現在、白水の大福寺に移されている)満願寺という寺があったといわれ、参道には三三観音霊場だった頃の石仏が点在しています。

一番の石仏は、半迦思惟の如意輸観音像で、文化九年(一八一二)壬申と記れ、近世に流行した観音信仰の霊場だったことが分かるのです。南の成羽川に向って突き出たこの山は"のろし山"ともいわれていたらしく成羽藩にとって城下や境谷の番所が見え、軍事上重要な場所だったのです。「鍋坂」の北側には、民族学者の柳田国男が珍しい地名として取り上げた(柳田国男「地名の研究」)香櫨谷(香呂木谷)があり、そして、産土神の天津神社(妙見神社)が鎮座していて、神社の境内には目通りが六mもあるむくの大木が立っています。また、林元洪が宝暦三年(一七五三)に書かれたものを記録した古碑も残っています。「鍋坂」という地名は鍋形になった地形に由来するもので「鍋を伏せたような地形をした場所」という意味で「鍋山」とか「鍋島」などと同じ地形の形を表す地名なのです。