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町屋


町屋

下町の建設にあたって、領主の家臣団の城下集住とともに、これに物資を供給する商工業者すなわち商人と職人の城下集住が行われ、町屋の成立をみた。町屋は、松山往来の本道筋に木町・下町・南町が位置し、この東側に平行して新町・鍛冶町.東町があった。東町を除いた五つの町を「五丁の町」といい免税免役の特権が認められ優遇されていた。商店街が幹線道路にあったのに対して、職人などの手工業者は、それほど交通に左右されないので、幹線道路からはずれた位置におかれていた。

町屋として最後につくられたのは高梁川対岸の鍛冶屋町であった。山田方谷によって藩政改革の一環として、鍛冶屋・鋳物師を各地から招いて成立させたものであるc当時は、厳しい身分制の世の中のことであり、町屋家中屋敷と厳重に区分され、両者の交際はほとんどなかった。その上、町屋は以前から住んでいた者が多かったのに対して、武士は所替で他所より移住して来た者が多かったため、言葉もおおいに違っていた。

<出典:高梁歴史読本高梁青年会議所発行>

索引【ま】分類[松山藩の歴史]登録日-2003/10/2219:07