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大津寄


大津寄
[地名の由来]

大津寄大津寄おお づ より」は、松原町にある大字地名で、東は、落合町原田川乱地区・西南には落合町福地、北には松原町の春木や松岡の大字があります。地形図(二万五千分の一「高梁」)で見ると、付近には、高原上に400mを越す山々が多く、等高線の間隔も狭く密になり、急傾斜の地形が山塊状になっていて、南の福地川やその支流に落ち込んでいて、集落は、谷間に集中し点在しています。

今でも、定広谷や垂谷川の急斜面は、地すべりの防止区域になっている場所もあって、平地に乏しい地域なのです。「大津寄」には、川乱の境付近に残る「大ふけ...(深い場所)峠.」(備中誌)とか、川乱の森下勉さんが語ってくれた「どんでん....(どんでん返しの地形)みさき...」などのように、昔からこの地で生活した人々が、険しい地形の特徴をとらえて、うまく表現し、伝説を残してくれているところが各所に見られるのです。

大津寄の歴史で古代や中世の頃は、よく分かっていませんが、下道郡成羽郷に属していたようで、戦国時代になって川上郡「大津寄村」の地名が見えてきます。その後、毛利の支配から慶長五年(一六〇〇)になると幕府領となっていて、この頃の村高は、小堀検地によると六五石余りと記録されており他地域に比べるとかなり少ない石高になっています。そして、元和三年(一六一七)からは、松山藩領となり「正保郷帳」(正保二・三年頃=一六四四.四六)には、「大津依村おお づ よ り」六五石余りと記されています。

その後、寛永一九年(一六四二)には、再び幕府領となり、元和三年(一六八三)からは、撫川なつかわの旗本戸川主馬助(「川上郡誌」には方之助)領となって幕末を迎えています。この時代の石高は、畑や水田の面積も増えたため江戸初期よりかなり増加していて「天保郷帳」(天保五年=一八三四)によると「大津寄村」二〇九石余りと記録されています。そして、明治になると倉敷県、深津県、小田県と属し、明治二二年まで川上郡「大津寄村」でした。

幕末の庄屋は、平松市兵衛となっています(「川上郡誌」)。この村の産土神うぶすながみは、宝歴九年(一七五九)創建と伝えられる天津神社(字妙見)で境内には、享保元年(一七一六)銘の石灯ろうが立ち、秋祭りに行われる渡り拍子(市重要無形文化財)は、川乱深耕寺花山院(平安中期の天皇)の伝説にも関係あるといわれ、二百年以上の歴史を誇るもので現在でも受けつがれて行われています。「大津寄」という地名は、古代語の「潰」つえ(つゆ)とか「崩つえ」から発生した地名で、つぶ..れる..とか崩れそう....な崖地...とか、切り..立った崖地.....を意味する地名で大おお崩づえ、津江、杖立つえたてなどと同じ意味の崩崖地形(地崖れ地)をさす地名で、自然地名の一つなのです。

索引【お】 分類[地名の由来]