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多和山峠


多和山峠

多和山峠有漢町の西の端、北房町(現・真庭市)との境に「多和たわ山峠」があります。やま東の陣が畝山(海抜四八三)と西の多和山(四四五m)に挟まれた「迫」に当る海抜約三五〇の位置にあさこります。峠への登り口には大谷の集落が点在し、南西に向かって大谷川が流れていて、巨瀬町で有漢川に合流しています。

この地は高梁川と旭川の分水嶺の一つになっています。峠のふもとにある大谷地区は、江戸初期には下有漢村の枝村としての大谷村でした。後には下有漢中村の枝村として記録されています。元和三年(一六一七)から松山藩領として、池田氏や水谷氏の支配を受け、後の延享元年(一七四四)から石川氏の支配となり、石川氏が伊勢亀山へ転封されると、中津井陣屋の支配を受けて幕末を迎えています。

多和山峠」は古くから落合往来の交通の難所、「多和山越え」として知られ、多くの人々が往来し、物資の輸送も活発に行われました。尾根越えの道を登り切ると向こうの世界が広がる「ほっと一休み」する場所として、こちらとあちらを分ける境目として、また、文化を結びつける場所として昔から多くの人々が「多和山峠」を大切にしてきました。

峠付近には集落もでき「長い軒の宿屋があってばくろうなどが泊まっていた」(「有漢町史」)とか、「今、うちの家があるところに茶店もあった」(藤森勝年さん=有漢町有漢・六九歳・の話)のです「多和山峠」には信仰も生まれ、交通安全、牛馬の安全を祈願した「馬頭観音・伯楽天はくらくてん王(馬をつかさどるおう星)・大日如来・明治四〇年」銘の碑が立っていたり、峠に登ると「寛政二戌年」(一七九〇)と書かれた地蔵石いぬ仏(昔とは位置が移動している)が祭られていて境目信仰(峠信仰)の面影が残っているのです。「多和山峠」という地名は「峠山峠」とも書かれ「タワ」たわやまとうげと「トウゲ」を二重に表記した珍しい自然地名なのです。

「タワ」(タオ)は峠の古称なのですが、国字といわれとうげ漢字ではありません。山の鞍部、即ち「たわんだところ」という意味から「タワ」(タオ)という地名ができたのは、平安時代以降といわれ古くから「タワ越え」などと使われていました。中国地方には特に「タワ」(タオ)の地名が多く、見たこともないような特有の字が使われていて(峠たわ・・嵶・乢・垰・多和など)いずれもたおたわたお「とうげ」の概念はなんとなく現されていて(「方言文字」または「地方字」という)面白いのです。

また、峠には「柴折り神」という柴を折って手向ける信仰がしばおたむあって、その「タムケ」という言葉から音便となって「トウゲ」という地名ができたともいわれているのです。今では自動車の利用が一般化し、新しく多和山トンネルができて「多和山」の峠道は、往時の面影が薄れて急速に衰え、人々に忘れられようとしているのです。