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増原


増原
[地名の由来]

増原」は、玉川町にある大字地名の一つで、北は大字下切したぎり(「地名さんぽ」三十七回)、西は美星町、東は昭和町に接し、高原を刻んで流れる増原川上流の狭隘きょうあいな谷沿いに、下しも村、中仙戸なかせんど、上野、そして北西の大谷川の上流に中杉などの小字地名をもつ集落が点在しています。

増原川沿いの県道は、南西に向かって峠を越え美星町宇戸谷から矢掛へとつながっています。この道は古くから松山城下と矢掛を結ぶ往来で、高原や谷間の村々からの物資を「増原」を通り舟津(「地名さんぽ」四十九回)へ運び、そこから高瀬舟で玉島方面へ輸送していました。この往来筋にあたるのが「増原」なのです。

近世の「増原村」は、毛利の支配から慶長五年(一六〇〇)幕府領、元和二年(一六一六)には成羽藩領となり、寛永一九年(一六四二)再び幕府領となっています。その後、万治まんじ元年(一六五八)初代成羽藩主から丸亀五万石城主となった山崎家治いえはるの二男で後期山崎氏初代の山崎豊治とよはるが讃岐仁保領主から名跡相続みょうせきそうぞくで成羽藩五千石領主として領地替えとなった時から「増原」は知行所(所領)(のち成羽藩領)となって幕末を迎えています。

増原村」は以前には「猿原村ましらはら」といわれていたらしく、江戸時代初めの正保しょうほう郷帳(正保二・三年頃=一六四五.四六)に「川上郡猿原村、一五〇石余」と記録され、元禄一四年(一七〇一)の元禄郷帳にも「猿原村」と書かれています。幕末の天保てんぽう郷帳(天保五年=一八三四)には「古くは猿原村」と注記..があって「増原村四九四石余」と記されていて江戸中期頃までは「猿原村」といわれていたことがわかります。「増原」には増原下の下村に康永こうえい二年(一三四三)創立といわれ、阿弥陀如来を本尊とする真言宗宝蔵寺があります。

また、中仙戸には八幡神社が鎮座していて文政四年(一八二一)に社殿を再建したという棟札があり、境内には古くからの農業信仰を伺わせる雨乞いの神、水分みくまり神社が合祀されています。下村にある下坂神社は毎年十月に「盛り飯祭」(一升飯祭)という豊作を祝う古式豊かな祭りが残る神社としても有名です。「増原」という地名は「猿原ましらはら」から変化した地名なのですが「猿原」の由来について二つが考えられます。一つは、この付近には野猿が多かったから(地域の伝承)というものです。

もう一つの説は「猿」という字の音にサル、サリ、サラ、マシラ、マシという読み方があって、「崖地・断崖」を意味するもので、猿畑、猿鼻、猿沢、猿川などと同じで「崖がけ」を表す自然地名(松尾俊郎「日本の地名」)だという説です。

索引【ま】分類[地名の由来]登録日-2004/06/1716:34