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青年期の留岡幸助明治13(1880)


青年期の留岡幸助明治13(1880)

年、16歳の時、友人が「西洋講釈師がやって来た!」と誘いに来たので聴きに行く。4、5回通ううちに「上族の魂も、町人の魂も神の前では同じ値打ちである」との話を聴き、8歳の時以来の身分差別の深いうらみが消え、人間は皆同じであるとの考えに感動した。キリスト教にはもっと素晴らしい教えが隠されているのではと熱心に講義所に通い、キリスト教を信じるようになった。キリスト教が高梁に伝わったのは明治12(1879)

年。この年、最初の県議会議員に選ばれたのが柴原宗助である。柴原は岡山で自由民権思想やキリスト教にふれ、10月 4〜6日、高梁小学校で演説会を開いた。その時巾川横太郎の自由民権や金森通倫のキリスト教の話がなされ、金森はその後毎週、高梁に講義所を開いて伝道した。また、岡山病院で西洋医学を教えていた宣教師ベリーは柴原の阯話で新町の重屋旅館の一室に月1 回3日間診療所を開いた。高梁の医師達は助手を務め、西洋医術を学んだ。優れた医術を持つベリーがすべての人に .平等に接する態度に感じ、キリスト教の信仰に入る人もあった。このように新しい考えや生活が入ってくる。また13年には新島裏の伝道もあり、キリスト教信仰者も生まれた。 12歳から行商に川かけ、のどが乾くと谷川の水を飲んでいた幸助はやがてやせてせきこみ、時に血を吐いた。父は商人にするのをあきらめ、赤木蘇平医師の所に月に米1俵で弟子入りさせた。ベリーに診察してもらったところ、県南部に広がる風土病、肺ジストマ (肺に寄生虫)

と分かり、治すには薬はなく、肝油を飲んで体力をつけるしかないと.言われた。幸助は赤木医師の所で肝油を飲んで治療し、キリスト教も教えてもらえると喜んだ。そして熱心に学び、向町にできていた安息日学校の一周年の祝会には町の人の多数見学に集まる巾で演説している。明治15(1 882)

年4 月、柴原宗助、赤木蘇平、福西志計子など 15名が洗礼を受け、岡山教会より..宮邦次郎仮牧師を迎えて高梁キリスト教会が成立、7月2 日に幸助も洗礼を受けて信徒になっている。なおA-の教会堂が川来たのは明治22(18 89)

年のことである。一方キリスト教を異端として反発する人々も多.く、14年頃より迫害が始まり、17年には礼拝巾の教会に石など投げ込まれるなど大迫害が起こっている。父金助は幸助の将来を思い、信仰をやめるよう強く迫った。16年3月一時京都に逃れ、同志社にかくまわれた。その後、帰ったが、父の圧力や警察署長の説得にも、「信仰は心の問題なので、父でも他のことは聞くが信仰については自分の信念を通す」と、自分が正しいと思ったことは絶対に譲らなかった。父は暴力も振るい座敷に閉じ込めたが.言うことを聞かず、 16年9月ついに吉山に帰すと .言って部屋から川して菓子を与えて愚痴を.言い、吉山の家に川かけて行った。幸助は離縁になると「A-まで.明愛がって育ててくれた父母に恩を返すことが川来なくなる」と脱川を決断し、養女に来ていた夏子に後の結婚を約束して逃げ川し、まず松村牧師の所に行って決意を話し、路銀をもらって夜通し歩.いて岡山に川た。金森牧師などの助けで四国A-治に逃れ、教会活動や伝道の手助けをしていた。 20歳になり、徴兵検査を受けないと家族が害を受けるので意を決して高梁に帰ったが不合格になった。この時父金助と和解が川来、彼の許.明を得て同志社に進学することになった。 (文・児玉享さん)