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成羽


成羽

成羽」は、高梁川の最も大きな支流成羽川の中流域に位置していて、南部の成羽川とその支流の島木川の河岸段丘(氾濫原)上に出来た低地と日名川沿いの狭あいな低地、そして中央部から北は、吉備高原面からなっている南東に細長い地域で構成されています。段丘面と高原面の境付近には中生代三畳紀に形成された成羽層群と呼ばれる地層は、植物、動物、貝類などの化石が多く中生代化石の宝庫となっています。

島木川流域の枝えだには中生代三畳紀層の貝化石層に中生代白亜紀の硯石層が覆う不整合が見られ県指定の天然記念物に指定されています。また中央部の中村台にはカルスト地形が広がり、その西を流れる成羽川が老年期の準平原面を深く刻み石灰岩の断崖となって典型的なV字谷の地形を呈しています。「成羽」の歴史は大変古く、平安時代の「倭名類聚抄」るいじゅう(じゅ)の下道郡の項に一五郷の一つとして「成羽」が書かれ、和訓で「奈之波なしは」となっています。

今の成羽町成羽付近に比定されています。中世になると鎌倉時代の徳治二年(一三〇七)に「大勧進沙門尊海の住寺」として「成羽善養寺」の名が出て来ます(笠神文字岩の銘文)。中世は「成羽荘」という京都天竜寺の荘園でした。永徳元年(一三八一)地頭職の三村信濃守跡の「成羽荘」を替地として天竜寺に寄進しています(「成羽町史」)。その後明徳元年(一三九〇)に至っても三村信濃守は「成羽善養寺」に立てこもって室町幕府に抵抗を続けた(「講座・日本荘園史」)などとあり、寛正かんしょう六年頃(一四六五)には「成葉」とも書かれていました。(前掲日本荘園史)当時の成羽荘には、福地、西野野、日名、羽根、臘数しわす村などがありました。

成羽八幡神社舊記=渡辺家文書・県古文書集)近世になると一五か村となり、中・南部は成羽藩領、北部は幕府領と旗本領に分かれていました。元和三年(一六一七)に山崎家治が二万五千石で入部、成羽村に以前三村氏がつくった居館きょかんを利用しています。その後、水谷勝隆が五万石で入封にゅうほう、鶴首城の置かれた下原村に陣屋を築き、その後万治元年(一六五八)家治の次男山崎豊治が五千石の旗本(交替寄合)として入封して、水谷氏のあとを継いで陣屋を建設し、町割を整えています。

下原の対岸にある成羽は、高瀬舟の川湊だったところで、吉岡鉱山の銅や吹屋の弁柄、そして小泉銅山の銅、高原上の村の薪炭などを積み出す物資の集散地として河岸かしば場が発達して、「成羽」は交通の要地として経済の核になっていました。「成羽」という地名の由来については、諸説があって判断が難しいのですが、三つの説を紹介したいと思います。

一つには「なせは」(斜端)の転化したもので、石灰石の高原の端の傾斜地の意味を表す地名(吉田茂樹)。二つには「なり」(平坦地)・「は」(端)という意味で吉備高原を深く刻む土地(溝手理太郎)を表すもの。三つには水音を表す「鳴輪」・「鳴波」に由来した地名だという説(地名用語語源辞典)がいわれていて、自然地名としての説が多いのです。