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春木


春木
【はるき】
[地名の由来]

五十三 春木 「春 はる 木き 」は、現高梁市松原町大字春木に当た り、海抜四〇〇.四五〇mの吉備高原上の小起 伏の山々のすそに位置し、(本)春木、東春木、 後春木などの小字地名をもつ集落が立地して、 山々のすみずみまで谷合の棚田が開けています。 「春木」は、平安時代の「和名抄」に書かれ た下道郡近似(知加乃里)郷に属していました。 近世になると川上郡一五か村の一つとして、成 羽郷「春木村」でした。毛利の支配から慶長五 年(一六〇〇)幕府領となり、元和三年(一六一 七)成羽藩領、寛永一九年(一六四二)水谷氏の松 山藩領、元禄六年(一六九三)再び幕府領、同八 年から松山藩領となって明治を迎えています。 寛永一五年(一六三八)頃描かれた「備中国絵 図」に「春木村」が挙がっていて、この頃の村 高は、二〇七石余り(「高梁市史」)で、その後 正保二・三年頃(一六四五.四六)の「正保郷帳」 にも同じ二〇七石余りと記され、元禄一四年(一 七〇一)には六五二石余り(「高梁市史」)となり、 幕末の「天保郷帳」(天保五年=一八三四)にも 六五二石と記録されていて、江戸初期に比べ、 西野々村の一部を編入したこともあって元禄頃 から石高が増加しているのが分かります。

備中 誌」(嘉永頃)には、幕末の様子を戸数七六軒、 人数三六二人、東西三〇町、南北二〇町と「春 木村」を書いています。 「春木」は、高原上の村々と松山、落合、成羽、高倉などの低地にある地域とを結ぶ交通路 が交わる場所で、松山城下や落合村方面からの 吹屋往来、そして、成羽方面から福地を通り 「春木」から皆 かい 名な を経て高倉への「トト道」(魚 の道)など、「七尺道」といわれる狭い道ながら も高原上の交通の要衝として近世になって発展 しました。また、大正になって学校も松岡から この地に移り「春木」は、松原の文化の中心と なりました。 産土神 うぶずながみ は、青 あお 砂ず な 五社神社で寛文年間(一六六 一.七三)に松山藩主水谷勝隆が創建し、元文 三年(一七三六)に再建された神社で、五社神社 とは、五所神社と同じ天照大神など五座の祭神 を祭った神社という意味なのです。また、寺院 には薬師如来を本尊とする真言宗瑠璃山満願寺 があります。 「春木」という地名は、全国各地にあります が、「春 はる 」は、「治」、「墾」などと書かれてい る地名と同じで、いずれも開墾 .. とか開く .. という 意味(「字訓」=白川静・平凡社)で、「木 き 」は 接 尾 語(「日本地名語源事 典」=新 人物往来 社)だとい われてい ます。即 ち 、「 春 木」は開 拓地名の 一つなの です。 (広報高梁