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高梁川の高瀬舟


高梁川の高瀬舟 →

高梁川の本流でも高瀬舟は活躍(かつやく)していた。

松山〜新見の舟路が本格的に開発されたのは十七世紀中頃のことで、備中松山藩主
水谷勝隆(みずのやかつたか)によるものであった。一八四〇(天保」」)年ころには、新見
から下る舟は、原則として毎月六度であった。
舟は午前八時に出発し、その日のうちに松山に着いた。一七五四(宝暦四)年には、一隻
(そう)の積み荷の上限は、米ならば三斗(と)五升俵(しようだわら)で四〇俵(ぴよう)、
四斗俵で三六俵(一俵は約六〇キログラム)、割鉄(わりてつ)(鉄を棒状にしたもの)ならば
五五束、旅客ならば三〇人と決められていた。松山から下る舟は大型になり、荷は上流より
五割ほど多かった。新見からの積み荷は、松山河岸問屋の舟に積み替えた。継舟制である。

この制度は、.水量にあった上流の小型舟から下流の大型舟へ積み替えることのほか、
税収入の確保と松山藩に所属する舟や城下の問屋の保護にもあったとされている。
しかし、積み替える手間がかかっても、運上銀を納めても、牛馬を用いた陸上での輸送と
比べると、舟でのそれは、はるかに大量に、かつ安価(あんか)に輸送できるのであった。

例外として、新見藩主の荷で売買に関係ないもののみ、直通が認められていた。
松山藩では新見藩との境の井高(ドヘ  え)と、松山の上手の辻巻と、下手の青木に番所を
設けて、税を徴集(ちようしゆう)していた。その年額は一七三九(元文四)年から五年間の平均で、
年間約二五貫文(かんもん)であった。高瀬舟の隻数は時代によって変化したが、舟の営業権
である舟株(ふなかぶ)はほぼ定まっていたようで、一七四四(延享元)年には、松山は」〇三株
とあり、ほぼ同じ時代の一七五六(宝暦六)年には、成羽は二四株であった。松山の高瀬舟
高梁川を下り、約九キロメートルの高瀬通(たかせどお)し(運河)を通って下島に着いた。