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高梁市のシンボルである国指定重要文化財の備中松山城


高梁市のシンボルである国指定重要文化財の備中松山城

高梁市のシンボルである国指定重要文化財の備中松山城。標高およそ四百三十メートルの臥牛山の小松山の峰に築かれたこの城は、日本で最も高いところに現存する山城として有名です。高梁備中国のほぼ中央、高梁川中流に位置し、山陽と山陰の中間にある水陸交通の要衝です。そのため、高梁を支配することは備中国を治めるのに重要な意味を持ち、早くから臥牛山に城が築かれました。延応二年(一二四〇)、有漢郷の地頭(現上房郡有漢町)秋庭三郎重信が初めてこの地に城を築いたと言われています。当時の山城は簡単な砦であったとされています。この後、次々と城主が変わりました。永禄三年(一五六〇)には、三村家親が城主となりました。この頃から三村氏の勢力が備中全域におよび、備中松山城備中国の中心としての地位を占めるようになったのです。備中兵乱によって三村氏は滅びましたが、この時の備中松山城は臥牛山のあちらこちらに二十一の砦を築き、山全体が難攻不落の城塞となっていました。三村氏が滅亡した後の備中松山城には、毛利氏、小堀氏、池田氏などに続き、寛永十九年(一六四二)には水谷勝隆が五万石を与えられて成羽から入封しました。その子勝宗の代には、幕府の許しを得て備中松山城の大修復を行いました。そして安藤氏、石川氏などが城を治め、最後の城主として板倉氏が入封。板倉氏は延享元年(一七四四)に勝澄の入封以来、明治に至るまで七代、百二十五年続きましたが、特に七代目勝静は江戸幕府の老中首座として将軍徳川慶喜を助けて国の政治に携わりました。(高梁市市勢要覧)

索引【び】分類[備中松山城関連]登録日-2003/09/1213:18