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原田亀太郎



[高梁ゆかりの人物] [高梁偉人伝]

原田亀太郎とは・・

幕末期の備中松山藩のおいてただ一人靖国神社にまつられている人物である。
幕末期、備中松山藩は藩主板倉勝静が幕府の大老という位地にいたことにより朝敵とされ5万石の藩封は取りつぶしとなり松山藩士は賊軍の藩士という扱いを受けた、そんな松山藩出身の武士でありながらほかの藩士たちとは全く違う人生を送ったのが原田亀太郎である。
このコーナーではそんな松山藩士としては異例の原田亀太郎を取り上げる。

亀太郎は天保9年8月に松山藩城下新町の煙草商原田市十郎の長男としてうまれた。幼時から読書を好み、幼いうちは進鴻渓の門に学んだ、安政1年(1854年)には江戸に遊学にでて岸淵蔵に入門、ついで備中倉敷に在住の森田節斎に学び、大義名分に通じた。

亀太郎はめきめきと己の頭角を現してゆく、その才能を見込まれついには松山藩主板倉勝静に抜擢されて藩士に取り立てられたが、尊皇撰夷の志を遂げるため、翌年辞して和泉(現大阪府南部)に行き谷三山の門に入り、かたわら剣を広瀬季忠に学んだ。また、京坂の間を漫遊した、亀太郎は時事を論議することを好み近畿の志士たちとよく激論を交わしていたという。

そして分球3年(1863年)尊壌派は、嬢夷祈願のため孝明天皇の大和行幸を決し、それを機に討幕軍を起こすことまで計画した。

8月13日大和行幸の詔が出されると中山忠光{なかやま ただみつ 弘化2年4月13日(1845.5.18)−治元年11月15日(1864.12.13)}は「攘夷親征の奉迎」と称して同17日、吉村寅太郎らの同志を率いて京都を出奔、大和五条代官鈴木源内を誅戮して挙兵する。

亀太郎はこの義挙に勇躍して参加する、しかし情勢は8月18日の政変で、薩摩・会津両藩の公武合体派が勢力を握ったことから戦況が一変、追討諸藩の攻撃を受けることになった。戦うこと約40日あまり、志士の一隊は戦死しあるいはとらえられた。亀太郎ら一軍も逃れて紀伊国(現和歌山県)に入ったが龍神村で和歌山藩兵に捕らえられ、天誅倉に幽閉され京都六角獄につながれることとなった。

禁門の変のさなかの元治元年(1864年)7月19日、同囚32人とともに堀川の獄にて斬に処せられた。享年27才であった。

亀太郎の父市十郎は亀太郎の入獄を聞いて京に上り百方手をつくして其意を通じた。やがて粗末な紙に認めた書が届けられた。

去年中山侍従殿

天子之御為に大和にて義兵を被挙候節私も御招に預り候
故御昧方に相成候庭敗軍に及び私始め大勢生捕に相成候
京獄中にて二月以来既に死刑に相成候得は私も近々同様と
存候誠に子として父母の莫大之御恩不報又私文学修行に付
此上もなき御心配を相掛一日も御安心を致し不奉又憂目に
逢せ奉り重々之不孝に候然し此度之事は天子の御為と存じ
死に趨き候故不幸の罪は御免可被下候弟並に妹に親に
孝を蓋し兄弟むつましく可致と被仰付候様奉願候

亀太郎 獄中にて認 

御父様

後日父市十郎は獄中の書と、石川晃山の描いた書像とを携えて備中倉敷に森田節斎を訪ひ、一文を願った。節斎は其れを見て肇を放って泣いた。乃ち筆を執って書像記を作った。それが稀有の名文であったため、亀太郎の名声はますます喧伝(けんでん)された。

明治7年5月朝廷より祭粢金を賜り24年9月靖国神社に合祀され36年には從五位を与えられた。

刑死数十日後、父市十郎が持参した亀太郎の遺像および獄中書をみた師森田節斎が画像記を書いたが、それが稀有の名文であったため、亀太郎の名声はますます喧伝(けんでん)された


はらだかめたろう原田亀太郎
1838・8・15〜1864・7・19(天保9〜元治1)

高梁市出身
勤王の志士。名は広。通称ははじめ亀太郎、一作とも称す。煙草商原田市十郎の長男として備中松山城下に生まれる。幼時から読書を好み、はじめ藩儒進鴻渓に学び、1854年(安政1)江戸に出て岸淵蔵に入門。ついで備中倉敷に在住の森田節斎に学び、大義名分に通じた。

藩主板倉勝静にその才能を愛され、抜擢されて藩士に取り立てられたが、尊皇撰夷の志を遂げるため、翌年辞して和泉(現大阪府南部)に行き谷三山の門に入り、かたわら剣を広瀬季忠に学んだ。また、京坂の間を漫遊し、懐慨(こうがい)国事を談じ、深く勤王の志士と結んだ(『高梁先賢祭二+五祭神伝略』)。

'63年(文久3)尊壌派は、嬢夷祈願のため孝明天皇の大和行幸を決し、それを機に討幕軍を起こすことまで計画した。こうした情勢の中で、中山忠光を擁した天言朱組の義挙に勇躍して参加したが、8月18日の政変で、薩摩・会津両藩の公武合体派が勢力を握ったことから政情は一変し、追討諸藩の攻撃を受けることになった。逃れて紀伊国(現和歌山県)に入ったが小俣で和歌山藩兵に捕らえられ、京都六角獄につながれた。禁門の変のさなかの'64年(元治1)7月19日、同囚32人とともに斬に処せられた(『維新史』)。刑死数十日後、父市十郎が持参した亀太郎の遺像および獄中書をみた師森田節斎が画像記を書いたが、それが稀有の名文であったため、亀太郎の名声はますます喧伝(けんでん)された

(『高梁先賢祭二+五祭神伝略』)。