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下切


下切
【したきり】
[地名の由来]

下切 したぎり 」は、現在玉川町の大字や小字名 として残っている地名であります。北は成 羽川を隔てて、落合町阿部、西は山の尾根 続きに成羽町日名の畑 はた と、東側は玉川町玉 とつながっています。地形図で見ると、吉 備高原上の隆起準平原面で、成羽川に沿う 北側は険しく、平原面は地形が波浪状にう ねり、「下切」付近にはゆるやかで小さな 平坦面があって「下切東」「下切西」と 「笠根」「大成」「根古里」などの集落が点 在し、畑や水田が分布しています。この高 原には、四七〇メー トルの三角点があって、昔こ の波浪状の高原を開拓したり開墾するには 大変であったろうと思われる場所なのであ ります。 以前「下切」は川上郡に属してい ました。江戸時代から明治二十二年 まで、「下切村」でした。慶長五年 (一六〇〇)には幕 ・ 府・ 領・ 、そして元 和三年(一六一七)には松 ・ 山・ 藩・ 領・ と なり、「寛永備中国絵図」(一六二四 .一六四四)には松 ・ 山・ 藩・ 領・ ・正保の 頃(一六四四.一六四八)には幕 ・ 府・ 領・ 、そして水谷氏が断絶して以後、 勝美の弟勝時は旗 ・ 本・ 三・ 千・ 石・ として布賀に陣 屋を設け「下切」を知 ・ 行・ 所・ として利用し幕 末を迎えるのであります。また、「笠根」 地区には、花山法皇巡幸の伝説が残り、荒 神社横の六面地蔵石仏は古くて、珍しいも ので原田川乱深耕寺の六面石仏との関係は 興味があるところであります。また、「下 切」には寛文三年(一六六三)松山藩士森 宗森定が勧請したといわれる山神社があっ て山を領 うしは く神として、産土神 うぶすながみ として、春に は田の神・秋には山の神としてこの地にふ さわしい神社であります。 「下切」という地名は、はっきりとした 語源はわかっていないが、「下切」の「切」 という意味は「割」と同じ意味で「土地割 り」・「区画する」・「開発する」・「開墾する」 という意味で「上切」・「中切」・「下切」な どと開墾地に見られる地名なのです。恐ら く、この高原を開発した時代の名ごりなの でしょう。もう一つの説は、高地にある村 で、下が霧に包まれていることが多いこと から「下霧」から生じた地名で「下切」と なったとも言われるのであります。 (広報高梁