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塩田


塩田(地名)
【しおた】
[地名の由来]

塩田」は、宇治町の西の端で塩田川の上流 にあり、北の野呂・陰地などの地名のある山の 斜面と南の宮陰地などの地名がある山とに挟 はさ ま れ、西は、成羽町本郷・布寄などの山々が迫っ ている地域であります。 現在の宇治町一帯は「倭名抄 わめょうしょう」(九三一.九 三八)に出てくる穴田郷の一部だったと考えら れています。中世になると赤木氏の先祖といわ れる赤木太郎忠長が承久 じょうきゅう の乱(一二二一)の戦功 によって鎌倉幕府から、備中国穴田郷の地頭に 補任 ぶ にん されて信濃国からやってきて住んだと伝え られ、その後赤木氏は四家に分かれて住み、共 同で先祖の祭祀を行っていました。近世になる と、穴田郷の内の十二か村の一つとして「塩田 村」が出てきます。それは、江戸幕府の石高書 き上げ帳である「正保郷帳 しょうほごうちょう 」(一六四四)や「元 禄郷帳」(一六九七)に幕府領として村名が書か れています。その後、倉敷代官所支配の時代を 経て、明治一四年に丸山村と合併し穴田村にな り、明治二三年から宇治村に属しています。

塩田」の南や西の山すそ一帯には江戸末期 頃から石州系の塩 ・ 田・ か・ わ・ ら・ の登り窯 がま が点在し、 釉薬 ゆうやく がわらの産地として栄えていましたが、今 では四・五か所の窯跡が当時の面影を残すのみ になっています。産土神 うぶすながみ は、宮陰地にある御前神社で承久年間(一二一九.一二二二)に勧請 じょう さ れたと伝えられ、「宮座」も最近まで行われて いました。大願主は、塩田赤木家(「蔵元」)で、 御神幸 ご しんこう の時の「御旅所 お たびしょ 屋敷」が赤木家西側に残 っています。 「塩田」という地名は、海の近くに分布する 塩(潮)を意味するものと、宇治の「塩田」のよ うに山間に分布して地形を意味するものとがあ ります。写真で分かるように田地がわずかにあ り、谷の奥まったところや谷口で楔 くさび 形にしぼり 込んだような地域の地形を表現するもので「 しお る」という語の「しお」からきた地形地名で、 「萎田」とか「 田」と同じ意味の地名なので す。 (広報高梁