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伊賀町


伊賀町」は.頼久寺町と向町が交わる龍徳院前の踏切付近から,紺屋川の右岸を奥万田、楢井方面ヘと登る坂道(楢井坂)に沿う細長い町で、秋葉山の南麓に位置する町であります。

池団長幸が.元和3年(一六一七)に入国し、下級武士の屋敷地としてつくったと言われる城下町時代の「伊賀丁」が、そのまま、「伊賀町」地名として残っているものです.「伊賀町」を石川時代(一七一一〜四四)の絵図(「松山城下絵図」・亀山市図書館)で見ると、道の南側に沿って百人組長屋と家中屋敷三軒や明地が、北側に矢場と梅岩寺、長州寺の二つの寺が描かれています。

また、延享元年(一七四四)、には、家中屋敷二.給人屋敷一、一棟長屋三が記録(「松山家中屋敷覚」=市図書館)されていて、この町の様子も移り変わっていることが分かります。

伊賀町」は楢井坂を下って城下ヘ入る東の重要な入口だったため、奥万田口ヘ城(木)戸を設け、城(木)戸番を置いて警固をしていたようで.この地区に伊賀者(しのびの者)を住まわせていたところから、伊賀町」といる地名がついたのであります.当時、伊賀者がどんな生活をしていたのか分かりませんが、華やかな、江戸初期に比べ、、江戸時代後半になると、ただ単なる門番などの雑役が多く、三人扶持ぐらいの薄給だったようで.忍者の時代は終わっていたのであります。

この町は、幕末の天保十年(一八三九)の大火で焼け、その後、町も様変わりをして近代へと移り変わって行きます。明治十四年になると家中屋敷や矢場の跡地に岡山県下初の女学校がつくられ、その後、明治四十、一年に順正女学校がこの地に移ってきて、現在は、「順正寮跡」と」て残っています.「伊賀町」という地名は皇居の内にある「百人長屋」や「半蔵門」。そして.東京の「笄町(こうがいちょう)」(甲賀、伊賀の略).三重上野市の「忍町」などと同じ城下町地名なのです。