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シワス


臘数 

川上町に「臘数 」(数)という大字地名があります。漢字しわすも大変難しい字で「 臘 」という字に「数」の字を組み合わせてろう「しわす」と読ませる珍しい地名の一つであります。 「臘数」は成羽川の支流、 領 家川の右岸にあって成羽町の高りょうけ丸山(五四一)と鵠ノ森山(四八〇)の西側、海抜一〇〇こう .二五〇の谷筋に位置していて、臘数と郷の集落が点在しています。領家川を北東に下った成羽川との合流地点には東町(川合)の集落があります。 

「臘数」の地名が最初に見られるのは、戦国時代の文亀三年ぶんき(一五〇三)成羽八幡神社の神田検地が三村家親 によって行いえいかわれた時の記録(「成羽八幡神社旧記」=「岡山県古文書集」)に「臘数村の渡部三郎左衛門(三村氏の被官)抱 分」としてかかえぶん「北ノ坊ノまへ田一反半、しわす山王神田、上 分米壱石八さんのうじょうぶんまい斗」などと記録があり「臘数村」が出て来ます。この頃村の氏神は成羽八幡神社だったことが分かります。 

また、前掲書の「成羽之荘六ヶ村末社定リ之事」《大永(一五二一.二八)の頃》に八幡宮内の山王宮を「臘数」に勧請したことが書かれ、天竜寺の荘園だった成羽荘の各村は、八幡宮の末社を勧請したのでした。 近世になると川上郡に属し、毛利氏の支配から慶長五年(一六〇〇)幕府領となり、同九年から小田吉田村の旗本岡氏の所領、 元和元年(一六一五)から小堀氏の支配、寛永一五げんな年(一六三八)松山藩領(池田氏在番)、そして同一六年水谷氏の成羽藩領、同一九年再び幕府領、 万治元年(一六五八)かまんじら旗本山崎氏(のち成羽藩)領となり幕末を迎えています。寛永一五年頃の「寛永備中国絵図」(岡山大図書館)には「志わす村」、村高一五五石余と記され「正保郷帳」(正保二・三年頃=一六四五.四六)にも一五五石余り、枝村として星原が書かれています。 

幕末になると「天保郷帳」(天保五年=一八三四)に二三九石余と記録され村高が増加しています。万延元年(一八六〇)頃の「備中村鑑」には、一七一石余と減少し、慶応.明治むらかがみ四年(一八七一)頃の「旧高旧領取調帳」には再び増加して二四五石余となっています。これまで枝村であった星原は明治二二年に分かれて東成羽村大字星原となり、「臘数村」の本村(臘数・郷)は手荘村となり大字「臘数」となっています。現在、本村(臘数・郷)の産土神は日吉 神社で、前身は中世の山うぶすなひえ(ひよし)王宮(日吉山王権現)で成羽藩主山崎堯治(三代)が領内鎮護ひえたかのために祀ったといわれ、大山祗命を祭神とした神社でありずみのみことます。付近には今でも山王峠とか王子の迫など地名が残ってだわさこいます。また、成羽町星原から山すそを通り「臘数」を抜ける東城への道が明治頃までありましたが、今は利用する人も少なく昔をしのぶだけになっています。 

「臘数」は難読地名の代表的なもので、由来ははっきりしません。「臘」は「字通」(平凡社)によると『「ろう」と読み「まつり」とか「年の暮れ」という意味で、冬至後に歳を送る祭りを意味し、年末のことをいう。また、陰暦一二月のことで臘月のろうげつこと』などと説明しています。 天保六年(一八三五)の「備中国巡覧大絵図」には、川上郡おおに「臘月」と表記して「しわす」と仮名をつけています。これが本来の文字だとすると「師走」(一二月)にちなんだ意味で付けられた地名がいつの時代にか「月」が「数」に変化したのかも知れません。また、その逆で「数」が「月」に変わったことも考えられるのです。 
もう一つの意味は「しわ」・「す」という「しわ」(臘・志和など)は、皺 が寄ったよしわうな地形・曲がった地形などの意(「地名用語語源辞典」)なのでしょうか、とにかく地名は歴史を語ってくれる大変面白いものなのです。