与謝野寛・晶子の旅 【よさのてっかん・あきこのたび】 {{category 高梁ゆかりの人物}} 昭和4年(1915)の秋、歌人 与謝野寛(1873.1935)・晶子(1878.1942)夫妻が高梁を訪れています。油屋旅館(本町)を宿に、備北路の紅葉をめぐる6日間の旅でした。 夫妻は10月下旬に来高。2日目には早朝から臥牛山に登り、荒れ放題だった備中松山城で次の歌を詠んでいます。 松山の渓を理むるあさ霧にわが立つ城の四方しろくなる(寛) 瀬戸の海伯耆に霧の分れ去りあらはになりぬ傷ましき城(晶子) 3日目は山田方谷の墓参りや満奇洞(新見市)などに足を伸ばし、4日目には高梁で寺まわりの後、午後は順正高等女学校で講演を行っています。 また、4泊した油屋旅館には、当時部屋の下を流れていた高梁川や対岸の方谷林の風情を短冊や掛軸に残しています。 油屋の宵の障子をなほ鎖さず月はなけれど川霧をめず たそがるる方谷林よ河原なる草の紅葉はくさむらにして(晶子) (広報高梁より転記)