米川文子・留岡幸助顕彰碑 〔MonumentofFumikoYonekawaandKosukeTomeoka〕 (米川碑一昭和53年12月建立・留岡碑、昭和60年4月建立) 所在地高梁市柿木町 郷土資料館玄関の北側に米川文子顕彰碑、その前方、中央児童公園西北の隅に留岡幸助顕彰碑がある。 米川文子は明治27年(1894)、市内間之町に生まれ、幼少より箏曲・地唄・三絃を修業、大正6年(1917)東京で箏三絃の教授所を開設し、多くの子弟の育成と、幾多の名曲を世に送った。特に箏の5線譜化は画期的な業績として有名である。 昭和41年、箏曲の最高芸術技能保有者として、国の重要無形文化財(人間国宝)の指定を受け、同年、高梁市名誉市民に推戴された。なお、ロシア文学の権威として世に名高い、米川正夫は女史の実兄である。 留岡幸助は元治元年(1864)、市内新町の髪床屋・吉田家に生まれ、出生後まもなく南町の米屋・留岡家の養子となった。苦難な少年時代を送ったが、明治15年(ユ882)19歳のとき、高梁基督教会で洗礼を受けキリスト教徒となった。 その後、同志杜に進み、卒業後丹波地方の牧師を勤め、明治24年(1891)、28歳で北海道空地集治監に行き教講師4年、監獄制度の改善と非行少年の感化事業の必要を痛感し、刑務制度研究のため米国に渡った。 帰国した明治29年(1896)から)牧師・教言毎師・監獄学校教師などを勤めながら、宿願の感化事業に適進、明治32年(1899)東京巣鴨に家庭学校、のち北海道遠軽に広大な付属農場を持った分校をつくり、非行少年の感化活動に献身、昭和9年に死去した。