川乱 【かわみだれ】 {{category 地名の由来}} 落合町原田に「川乱かわみだれ」という珍しい地名があります。「川乱」は、南は落合町阿部と井谷川で結ばれ、北は、松原町神原と接し、東は、真似男ま に おが峠だわを越える旧吹屋往来によって落合町近似と結ばれ、西は、松原町大津寄と落合町福地に接していて、吉備高原といわれる標高三〇〇.四七〇メートル付近に広がる所で、老年期の起伏の小さい高原面を旧輪廻りんねの小さな谷川が枝状にくぼをつくって流れ、水田が谷に沿って階段状に見られる地形の場所であります。集落も谷川のくぼの縁にあたる場所や、迫さこの斜面に点在しています。「川乱」は江戸時代から明治十四年までは川乱村で、備中国川上郡に属していました。 文久三年(一八六二)には隣の原田村と境界争いがあったともいわれ、明治十四年になって原田村と合併しました。板倉勝澄時代の川乱村の村高は、延享元年(一七七四)の「差出帳」(「仲田家文書」=「高梁市史」)によると、四二八石八斗三升三合六勺となっていて、耕地の三分の一が畑、四分の三が水田となっていて、米作中心の農業地帯で、藩の中では標準的な村だったことが分かります。そして、「前掲書」には当時の家数は五十三軒で、内 本家百姓が四十一軒、抱かかえ六軒、其他六軒、寺 深耕寺、長西寺、神社は諏訪神社一、酒屋一などと当時の様子が書かれています。 深耕寺は寛弘三年(一〇〇六)花山上皇が諸国巡幸のみぎり阿部深山に伽藍を造営して開基したと伝えられる曹洞宗の寺院、現在備中巡礼第一番札所となっています。長西寺は明暦三年(一六五七)創建といわれる不動明王を本尊とする天台宗の寺院であります。また、産土神うぶすながみは諏訪神社で、花山院が御幸ぎょこうの際、信州から勧請したといわれていて、「川乱」という地域の古さを感じさせてくれます。「川乱」という地名は、地形図でよく分かるように、吉備高原といわれる高原状の地形の表情や性質を最も素朴で単純な表現手段で言い表していて、自然地名の中で、分かりやすく地形を表現した” みごとな地名“なのであります。まさに、隆起準平原の吉備高原は、「川乱」の地形なのです。