http://ftown.boo.jp/cgi-box/file/data/image_8.gif {{category 高梁ゆかりの人物}}{{category 高梁偉人伝}} http://ftown.boo.jp/takahashi/rekisi/izin/shimizu_hian.jpg 明治16年に岡山県の高梁で生まれた清水比庵は、明治40年に京都帝国大学法学部を卒業したのち、司法官を経て、安田銀行や古河銀行、古河電工に勤め、その後、昭和5年から9年間3期にわたり、日光町(現在の日光市)の町長として活躍しました。 日光町長在任中には観光政策に重きをおき、町役場への観光課の新設や観光常設委員による全国宣伝、温泉源の開発による発展策など、日光町の観光行政の基礎を築き上げたと評されます。 また、当時においては東洋一と称された「細尾スケートリンク」を完成させて、市民の体育活動と学校教育に貢献した結果、「スケート日光」の名を高めたことも大きな功績のひとつでした。 http://ftown.boo.jp/takahashi/rekisi/izin/Kahi.jpg 昭和14年部下の不祥事により日光町町長を辞任。その後、歌と書、画の三芸に没頭し「野水会」「有水会」を結成し各所で展覧会を開きます。 比庵は高梁中学校時代から与謝野晶子に傾倒し歌を始めています。以来在学在職中も短歌を作り続けるます。また『万葉集』に深く傾倒していた清水比庵は、日光で歌誌『二荒』を主宰し、歌人としても知られるようになります。のちに『二荒』は『下野短歌』に発展し、さらに『窓日』の隆盛へとつながることになりました。 昭和41年には宮中歌会始で御代「声」に対して 「ほのぼのとむらさきにほふあさぼらけうぐひすのこゑやまよりきこゆ」 と詠み高い評価をうけました。 書と画については、ほぼ独学でありながら、若くして非凡な才能を示します、 書は中学校時代から始め安田銀行時代に安田善三郎に認められ自信を持ちますが、世に知られるようになったのは70歳近くになっての事。また昭和17年以降は、川合玉堂との交流を通して独自の芸境を深めていきます。 昭和19年から3年間は章子の勧めで最愛の妻鶴代を失った失望を癒す事と戦禍を逃れることを兼ね岡山県笠岡市に疎開。昭和22年から長女明子夫婦と東京で同居するも夏の4カ月は笠岡で暮らし、笠岡高等女学校で歌の指導もしました。 昭和50年10月東京で死去。享年92歳。墓は笠岡市内威徳寺にあります。 比庵の作品の多くは、大胆な絵の周りに自詠の短歌が奔放な書体で記され、歌・書・画のいずれが主であり従であるという関係ではなく、三位一体となった独特な世界を形成していますが、とりわけ、米寿を迎えて以後の作品は、富岡鉄斎に例えられるほどに豊潤で、比類のない楽しさと優しさを備えているといわれています。 ---- 清水比庵(1883〜1975)は高梁出身の歌人です。はじめ司法官から実業界に身を置いていました。昭和5(1930)年懇望されて日光町(現日光市)の町長に就任し、日光の観光開発に尽力したことでも知られています。町長就任前から作歌活動を本格的に行い、昭和4(1929)には現在の窓日短歌会の前身となる二荒短歌会を主宰しています。 また、比庵の活動は短歌のみにとどまらず、独自の境地に至った絵画、書の作品を数多く残しました。こうした比庵の作品は歌書画三位一体の芸術として広く知られました。 昭和50年(1975)に亡くなってから本年で27年余りが過ぎました。比庵は「生きて居る人の價値は亡くなって十年二十年と年数が過ぎてから本当の事が分かるものだ」と語っていますが、比庵の作品に対して「本当の事」を知るための活動が現在も絶え間なく続けられています。 (市の情報) ---- 清水比庵は明治16年高梁市に生まれました。 歌、書、画、の三位一体の芸術に優れていましたが中でも歌は群を抜いていました。 旧制中学校時代から短歌に親しんだ比庵は40代から本格的に短歌の制作を始めます。 自らの歌集を刊行したり短歌会の主催をつとめたりと活発な活動を続けました。 昭和41年には宮中歌会始で御代「声」に対して 「ほのぼのとむらさきにほふあさぼらけうぐひすのこゑやまよりきこゆ」 と詠み高い評価をうけました。 (ishii) 高梁出身の歌人「清水比庵」は昭和5年から9年間、現在の日光市である 「日光町」の町長をしていました。 そのとき、比庵は当時においては東洋一と称された「細尾スケートリンク」を 完成させて、市民の体育活動と学校教育に貢献した結果、「スケート日光」の 名を日本中に高めました。 現在も日光でアイスホッケーが盛んなのはこの比庵の功績なしには語れないでしょう。 (管理人) 清水比庵(1883〜1975)は高梁出身の歌人です。はじめ司法官から実業界に身を置いていました。昭和5(1930)年懇望されて日光町(現日光市)の町長に就任し、日光の観光開発に尽力したことでも知られています。町長就任前から作歌活動を本格的に行い、昭和4(1929)には現在の窓日短歌会の前身となる二荒短歌会を主宰しています。また、比庵の活動は短歌のみにとどまらず、独自の境地に至った絵画、書の作品を数多く残しました。こうした比庵の作品は歌書画三位一体の芸術として広く知られました。 昭和50年(1975)に亡くなってから本年で27年余りが過ぎました。比庵は「生きて居る人の價値は亡くなって十年二十年と年数が過ぎてから本当の事が分かるものだ」と語っていますが、比庵の作品に対して「本当の事」を知るための活動が現在も絶え間なく続けられています。 (市の情報) ---- 【記事】 HianShimizu (1883〜1975)名誉市民 弓之町出身。歌人。昭和41年、宮中歌会始儀の召人に。晩年は書・画家としても独自の境地を開拓。同46年に名誉市民に推たい。