成羽川の高瀬舟 笠神の舟路はまもなく閉鎖(へいさ)され、江戸時代になって一時期開通したこともあったが、 成羽川で江戸時代を通して開通していたのは、坂本川と合流する田原・惣田河岸 (そうだいかし)から下流であった。吉備高原の村々からの物資は、人々の肩や牛馬に よって近くの河岸におろされ、そこから舟に積み込まれた。成羽まで下った物資は、 そこで積み替えられた。 継船制(つぎぶねせい)と呼ばれる制度である。成羽からは、吹屋往来(おうらい)を通って 運ばれた備中や備後(びんご)北部の鉄、吹屋の銅やベンガラのほか、米・大豆(だいず)・ 小豆(あずき)・煙草・まきや木炭なども積み込まれた。成羽から下る舟は、運上銀 とよばれる税を勘定所(かんじようしよ)へ払って、切手札(きつてふだ)とよばれる証明証を 受け取り、松山藩との境にある境谷(さかいだに)の番所で荷改めを受け、高梁川河口の 連島をめざした。連島からは塩などを積み込んで帰った。成羽の領主山崎(やまさき)氏も、 陣屋前の総門(そうもん)から、舟に乗って参勤交代の旅に出た。