吹屋の銅 十八世紀初頭(元禄年間)には、産銅が年間百二十トンないし百八十トンに達した。当時全国で有名な銅山は二十カ所あったが、年間百二十トン以上産銅した所は、わずか六カ所であったことからも分かるように、吹屋は西国一の銅山であり、全国的に有名な銅山の一つであった。さきほどのうたは、当時の吹屋の鉱山景気をうたったものである。縄文時代や弥生時代は、石や土を使って石器や+器を作り、生活に役立てていた。 ところが大陸から青銅や鉄の道具が伝わってくると、強くて便利な金属がいろいろなことに使われるようになった。最初は、土や砂の中にまじっている金や鉄を集めていたが、そのうち、岩石の中にふくまれている金や銅を採り出す技術が進み、吹屋では平安時代の初めには、採掘が開始されたと言われている。江戸時代になって、一六一五(元和三)年頃から百三十年余りと、明治に入ってから再び大いに栄えた。 明治に入り、大資本による経営となり、操業の機械化、経営の革新などによって日本屈指の銅山となり、精錬所がつくられた。粗銅の運搬のため田原のち坂本から成羽まで人車鉄道がつくられた。このように栄えた吹屋にあった銅山も、年々不振となり、一九七二(昭和四七)年に閉山した。 なお、現在吹屋の人口は八○○人ほどであるが銅山の最もさかんだった明治の初め頃の人口は、約三〇〇〇人で多くの商人が集まり、鉱山と共に繁栄していた。大阪までの銅の運び方は、明治時代には次のようになっていた。吹屋から成羽まで(約十ニキロメートル)1牛・馬成羽から玉島まで(約三十六キロメートル)1高瀬舟玉島から大阪まで(約二百キロメートル)1船 <出典:高梁歴史読本高梁青年会議所発行> 索引【ふ】分類[吹屋]登録日-2003/10/2219:03