城下町高梁 城下町の形成江戸幕府は、豊臣氏を滅ぼした後、もはや徳川氏の覇権に揺るぎがないと見て、企国にコ国一城令」を発布した。城は大名でなければ持てないことになり、小大名や旗本は陣屋を設けて政務にあたった。こうした中で、松山城は備中唯一の城郭となり、その城下松山は備中で唯一の城下町となった。 城下町の形成は、小堀遠州が城下に木町・新町を作ったことに始まる。本町・新町は除地とし、地子を免除して都市を興し、商工業者を誘致する政策をとった。その後、池田氏時代になって、武家屋敷の建設と並行して、一六一八(元和四)年に商人町としての下町と、職人町としての鍛冶町がつくられた。紺屋町もこの頃つくられている。次いで、水谷氏時代になって、一六七〇(寛文一〇)年には南町が、一六八六(貞享三)年には東町がつくられた。小堀氏以来七〇年ほどで一応の城下町の形成をみたといえる。 <出典:高梁歴史読本 高梁青年会議所発行> 索引【じ】 分類[松山藩の歴史]