舟津 【ふなづ】 {{category 地名の由来}} 舟津 「舟津」は、広瀬から玉川橋を渡った玉川町 大字玉にある小字地名であります。玉村は、慶 長五年(一六〇〇)より幕府直轄領、そして松山 藩領、元禄七年再び幕府領、翌年から松山藩領 と移り維新を迎えています。 板倉勝澄の頃の玉村は、石高二八七石余、庄 屋堀理與太と書かれています(「川上郡誌」)。 玉村の玄関口にあたる「舟津」は、矢掛往来の 高梁川(旧松山川)への出口で、矢掛と松山城下 を結ぶ最短の街道でありました。近世には、本 流の高梁川が「舟津」や「寺の下 した 」付近まで入 り込んでいて、堤防でせき止められるまでは、 「舟津」の上 かみ ・下 しも の境付近が川湊だったのです。 三山・宇戸谷(現美星町)・下切・増原方面から の物資は「舟津」の市場まで出され問屋に集め られ、ここから高瀬舟で下流へ積み出す川湊と して発達しました。集落も城 しろ 山や ま (二四五メー トル)の東 側と南側のすそに、洪水の直撃を避けるように 集まっている「舟津」なのであります。 幕末頃から高梁川も流れを変え、以前の入江 も水田化しましたが、洪水になると地形の関係 で堤防も決壊し、明治一九年や昭和九年のよう に軒下まで水がきて「舟津」は、被害がひどく 家屋の流失・倒壊などで多大な被害を被った記 録が残されています。 また、「舟津」は備中兵乱の頃には、毛利の侵攻を防ぐための砦のあった城山があって、小規 模ながら土塁や堀切と思われる場所が残り、古 くから要衝として重要な場所だったのです。山 すそには、江戸後期の庄屋堀良右衛門の墓が立 っていて、そのそばに、康 こう 永え い 二年(一三四三)銘 のある「舟津の石塔婆 ば 」(市重文)があって、中 世にさかのぼる歴史の古さを感じさせてくれま す。 また、「舟津」と「勘場」の境には、享 きょう 和わ 元 年(一八〇一)の石鳥居のある八幡宮がありま す。境内には庄屋堀良右衛門寄進の手洗鉢、そ して、裏には康永二年銘の「舟津の石塔婆」 (市重文)が立っています。向かいの「寺の下」 には阿弥陀如来を本尊とする康永二年創立とい われる玉泉坊(真言宗)が「舟津」を見下ろして います。 「舟津」の地名は、高瀬舟の川湊のことで 「津」は集まる ・ ・ ・ という意味から港のことを言い ました。大正末期から陸上交通が盛んとなり、 商業集落としての機能が低下し、昭和三年に玉 川橋が出来ると「舟津」の川湊としての役割が 薄れ「舟津」という地名の意味も往時をしのぶだけになったのです。 (広報たかはし)