山田方谷生誕200年改革の先駆者の魅力探る'05/2/18 高梁市には「方谷(ほうこく)」と名の付く施設が多い。JR方谷駅、方谷橋、方谷林公園…。幕末期に破たん寸前だった備中松山藩を行財政改革で立て直した山田方谷(一八〇五〜七七年)を、住民がたたえ続けた証しである。政治や経済などの改革が求められる今、「改革の先駆者・方谷」が全国的に注目の的。生誕二百年の二十一日を前に、方谷の魅力を探った。 十一日、方谷生誕二百年記念のイベントが同市内であった。コーラスグループによる方谷賛歌の披露などに続き、高梁方谷会(約百六十人)の田井章夫さん(90)が講演。「方谷こそ今の政治家や経営者が目標にすべき人物だ」と訴え、会場から拍手を浴びた。 方谷は現高梁市中井町の農家に生まれた。江戸や京都に遊学。備中松山藩の財務大臣に当たる元締役兼吟味役に着任した一八四九年から八年間で、藩の借金十万両を完済し、さらに十万両を蓄財したとされる。 岡山県職員ら十一人でつくる「山田方谷に学ぶ会」は一九九八年、文献をもとに一八四九年の備中松山藩の財政収支を試算した。今の自主財源に当たる、年貢米や特産品販売収入などの合計は四万二千八百両。一方、役所費用や借金の利息払いなど支出は七万五千八百両もある。 藩札発行などの「公債依存度」は43・5%。借金十万両の利息返済は収入の約三割、一万三千両に上った。「現在にそのまま当てはめるわけにはいかないが、この状況を再建するのは厳しいでしょう」。同会世話人の一人、渡辺道夫岡山県立美術館副館長は言う。 台所事情を公開 そうした窮状の中、方谷はどのように改革を成し遂げたのか―。 同会がまとめた資料などによると、まず人件費などの経費削減に着手。自らの管理職手当も中級武士並みに引き下げた。債権者である大阪商人に破たん寸前の藩の財政状況を公開する一方、綿密な返済計画書を渡して借金返済の一時棚上げと大阪蔵屋敷の廃止を承諾させた。これで蔵米を藩内で保管して有利な相場で販売し、利益を得ることが可能になった。 さらに地元の鉄、銅資源を「備中鍬(ぐわ)」や鉄くぎなどに加工し、高付加価値化。たばこや柚餅(ゆべ)子(し)など特産品をブランド化し、江戸に設けた「アンテナショップ」で直販して巨利を得た。 乱発された藩札は回収し、大衆の面前で焼却。新規発行した藩札を流通させ、信用を回復した。 昨年三月、方谷終えんの地、岡山県大佐町に山田方谷記念館(木造平屋百二十平方メートル)がオープンした。これまで全国から訪れた入場者は二千二百人以上。岡田克三館長は「行政関係者や企業幹部が多く、熱心に質問してメモを取る姿が目立つ」と人気を喜ぶ。 民衆の目線貫く 方谷の業績を研究した「ケインズに先駆けた日本人」などの著書がある吉備国際大(高梁市)の矢吹邦彦教授は最近、講演依頼が急増した。「バブルが崩壊し、あらゆる面で行き詰まった今の日本は幕末期そっくり。多くの人が羅針盤になる人物を探す中、方谷が浮上した」と分析する。 「学ぶ会」の渡辺さんは、維新後に明治政府からの度重なる出仕要請を固辞して郷里で子弟教育に専念した方谷の生きざまこそ、根強い人気の源とみる。「改革の根底は教育を充実し、若い人を育てること。常に民衆に視線を合わせ清貧と潔癖を貫いた姿勢も、現代人が学ぶべきところです」 中国新聞地域ニュース 山田方谷生誕200年改革の先駆者の魅力探る'05/2/18