http://ftown.boo.jp/cgi-box/file/data/image_8.gif {{category 高梁ゆかりの人物}}{{category 高梁偉人伝}} 山中鹿之介 【やまなかしかのすけ】 備中松山城は重要な戦略上の拠点であったばかりに、中世には絶えず血生臭い争奪がくり返されたのである。三村氏滅亡後の松山城は、毛利氏の備中支配の拠点となった。織田信長の支援を得た山中鹿之介(やまなかしかのすけ)が尼子勝久を立てて播磨の上月城(兵庫県)で兵を挙げ、これを討つため毛利氏が出兵したが、この時、毛利輝元は松山城に陣所を置いている。毛利氏に降伏した山中鹿之介が無念の最期をとげたのは、松山城へ護送される途中の阿部の渡しであった。 山中鹿之介は幼名を甚次郎(じんじろう)といい、母から尼子氏の再興を図れとさとされ、鹿の角と三日月のついた先祖伝来の冑を授けられた。そして、鹿之介と改名し、「願はくは、我に七難八苦を与え給え」と三日月に祈ったという。出雲(いずも)の富田城(島根県)で戦い、数々のてがらを立てて勇名は味方だけでなく敵方にも知れ渡った。 しかし、長い籠城の末、食糧もなくなって毛利方に降った。その後一も初志を貫いて苦節1数年、一五七八(天正六)年、織田信長の支援を得て尼子勝久を立てて毛利の大軍と戦った。しかし、多勢に無勢の尼子氏はついに毛利氏に降伏し、主君尼子勝久は自刃した。鹿之介は七難八苦はもとより望むところと、主君に主家再興の志を告げ許しを請うてわざと捕われの身となった。そして、毛利方の支配する松山城へ護送される途中、阿部の渡しで討たれ、遺体は観泉寺(かんせんじ)の住職が葬り、中洲に榎を植えてその下に五輪の塔を建てたといわれる。この五輪塔は洪水で流され、その後松山藩士前田市之進が現在地に碑を建てたと伝えられている。 http://ftown.boo.jp/takahashi/map/yamanaka.jpg (山中鹿之介の墓-落合町阿部) ---- 山中鹿之介は16世紀中頃まで出雲地方を中心に一時は中国地方11カ国を支配した尼子氏の家臣です。 元禄9年(1566年)、尼子氏が毛利元就に滅ぼされた際、鹿之介は織田信長の力を借り、尼子氏再興のため兵を挙げ、備前宇喜多氏の直家であった播州上月城を攻め取りましたが、宇喜多・毛利連合軍の反撃により敗戦してしまいました。 鹿之介は再び兵を挙げるため降伏を偽り投降しましたが毛利側に偽りを見抜かれてしいます。 その後、鹿之介と妻子、家臣60名を備中松山城に護送の途中、落合町阿部付近の高梁川河川で首をはねられ無念の終期となりました。 (ishii) 高梁市落合町阿部(ローソンの隣)にお墓があります。また、同じ阿部の高梁病院近くにも供養塔があります。 (しゅうたつ) 「われに七難八苦をあたえ給え」と三日月に祈った尼子十勇士のひとり山中鹿之介は、天文14年(1545)に雲州富田月山城の麓に生まれました。数々の武勲をたて、毛利家に滅ぼされた主家尼子氏の再興を夢みて播州上月城に立てこもりましたが、 戦いに破れ、毛利輝元が居る備中松山に護送される途中、高梁川の渡し場で討ち取られました。時に34歳でした。 [参考文献]高梁市史 (R)