三島中洲 三島中洲(1830〜1919)三島中洲は幕末〜大正期の漢学者・法官。本名は毅き。通称は貞一郎。号を中洲、桐南などといいました。天保元年(1830)に窪屋郡中島村(現在の倉敷市)に生まれ、14歳で山田方谷に学びました。のち、江戸や津(現三重県津市)などに遊学し、学問の研鑚を重ねています。師方谷や進鴻渓の計らいによって、安政4年(1857)板倉勝静が治める備中松山藩に仕官しました。 藩校有終館の学頭をつとめ、自らも城下に賜った邸宅に家塾「虎口溪舎」を開き、子弟教育を行いました。藩政にも関与し、慶応4年(1867)明治維新の時には、松山征討が起こり、新政府の鎮撫使(備前岡山藩)への応接などの難局にあたり、尽力しています。明治5年(1872)、明治政府に招ねかれ、法官となりますが、明治10年に大審院判事を退職し漢学塾二松学舎(現二松学舎大学)を東京麹町の自宅に創設。 のちに、東京帝国大学教授、明治29年以降は東宮侍講として皇太子(後大正天皇)の教育にもあたりました。大正4年(1915)には宮中顧問官になるなど数々の要職を務めました。市内小高下町にある河川公園「中洲公園」は、この三島中洲を顕彰して名付けられています。 索引【み】分類[高梁偉人伝]登録日-2004/03/1608:23