高梁市 【たかはし】 {{category 地名の由来}} なかなか「たかはし」と読んでもらえない (某学生) 江戸時代には板倉氏五万石の城下町として栄えた高梁(たかはし)。 市街を見下ろす臥牛山上には今も当時の城郭が残り、土塀と瓦屋根が続く武家屋敷街、深い庇の町屋がある本町の通りなど、小京都らしい町並みが広がっている。 <日本有数の山城として知られる備中松山城。江戸時代まで高梁は松山という地名だった。 岡山駅からJR伯備線特急で、備中高梁駅までは約35分。駅前からタクシーに乗って、まっすぐに松山城のある臥牛山へ向かった。まず最初に、山上から城下町の全体を見たかったからだ。 町は中腹の木立の切れ間からよく見えた。家々が密集し、面のように広がる市街。左手に伯備線の線路が緩くカーブし、右手には広い幅の高梁川がゆったりと流れている。周囲は小高い山々。 歴代の城主もこの風景を眺め、防備と治世に思いを馳せたに違いない。 備中松山城は、高梁市街北端にある山城。現在の天守閣は天和3年(1683)に修復されたもので、標高430mの山上に立っている。 残念なことに平成15年の春まで工事中で、天守閣内部へは入れないのだが、険阻な山上に立つ城郭を見るだけでも価値はある。 城への道は登山道のように細く急傾斜。杉、樫などの大樹も多く、鳥のさえずりがしんとした空気を破るように聞こえてくる。中の太鼓櫓跡、三の丸跡、二の丸跡と息を弾ませながら登り、天守閣前の本丸跡へ。切り立つ崖や高い石垣に、あらためて防備の固さを実感する。