http://ftown.boo.jp/cgi-box/file/data/image_8.gif ---- {{category 高梁ゆかりの人物}}{{category 高梁偉人伝}} 綱島梁川 綱島梁川(つなしまりょうせん)は、一八七三(明治六)年五月二十七日上房郡有漢(うかん)村市場「新井屋(あらいや)」という有漢川に沿った豪農(ごうのう)の家に生まれた。父は長四郎(ちようしろう)、母はくめといった。六人兄弟の長男であった。梁川は、」八七八(明治一一)年四月知新(ちしん)小学校(当時宝妙寺(ほうみようじ)にあった)に入学し成績は優秀で、品行方正(ひんこうほうせい)、記憶(きおく)力は抜群(ばつぐん)で不得意(ふとくい)教科はなかったといわれ「神童(しんどう)」とうたわれたのである。 梁川が知新小学校を卒業した一八八六(明治一九)年三月に父が死んで、家庭の経済も貧しくなり父に代わって一家の柱として母を助け家を背負っていかなければならなくなったのである。そして、母校の教師となったのは十五歳の時であった。梁川の望みは将来学問で身をたてることであった。梁川は、当時有漢の開業医でキリスト教を信仰する神崎秀市(かんざきしゆうほ)や佐藤兵八(さとうひようはち)などの影響を受けた。一八八四(明治一七)年九月に高梁教会の「キリスト教講議所」ができてキリスト教へ接触(せつしよく)し始め、一八八七(明治二〇)年には高梁キリスト教会で洗礼(せんれい)を受けている。有漢市場にあった講議所は、明治・大正・昭和と続き、高梁教会から牧師(ぼくし)を招(まね)いてたびたび講演会が開かれていたようである。 梁川は、洗礼を受けてのち、毎週有漢から歩いて高梁の教会を訪れ、キリス十教の教えにひかれると同時に、キリスト教を通じて触(ふ)れることのできる西洋の新しい文化や思想などを先非(バいたは)車たちの指導を受けて勉強した。なかでも英語にはかなり力を入れていたと言われる。このように高梁教会で牧師や学生と交流して学問を吸収し、自学研鐙(けんさん)したのである。梁川は、初め京都の同志社(どうししや)への進学を望んでいたが、のちに有漢の有志や先輩たち(佐藤晋一(しんいち)、神崎秀甫、佐藤兵八、庄三郎吉(しようさぶろうきち)など)の勧めや支援があって、一八九二(明治二五)年東京専門学校専修英語科(早稲田(わせだ)大学)へ入学し、学生生活の一歩を踏(ふ)み出したのは十九歳の時であった。 梁川は、上京後も神崎秀甫と共にたびたび教会へ行き、信仰を深め、キリスト教の講演を聞いたと言われる。また、東京専門学校での学業にも専念した。坪内迫(つぼうちしようよう)遙(明治・大正期の評論家・劇作家)と大西祝(おおにしはじめ)(号は操山(そうざん)・明治後期の哲学者・岡山市出身)の二人の恩師を尊敬し、影響を強く受けた。東京での梁川は、学資に困り下宿生活にも苦労する中で、本を借り集め、買い求めながら研究を重ねた。 坪内迫遙には個人的に私生活の面で便宜(べんぎ)をはかってもらい、書生として同居させてもらったり、「早稲田文学」の編集の役に抜てきされ、その報酬(ほうしゆう)で生計をなんとか立てることができた。一八九三(明治二六)年専修英語科を卒業し、九月に文学科へ入学。文学や哲学(てつがく)など熱心に研究した。一八九五(明治二八)年文科を卒業後、島村抱月(しまむらほうげつ)などと「哲学会(てつがくかい)」をつくり、ドイツ語の勉強も始めている。そして、彼は多くの論文を発表し全国にその名が知れ渡る学者となった。 原稿料(げんこうりよう)や講義録による収入をもらい生活が安定したが病弱であった。一八九七(明治三〇)年郷里の有漢から母と妹を東京へ呼び寄せ一緒(いつしよ)に生活するようになるが、病気が思わしくなかったため、神奈川県の逗子(ずし)で療養(りようよう)をしたが、病状が進み、ついに床中(しようちゆう)の人となった。睡眠(すいみん)さえ思うようにならない状態になりながらも読書、著作など活発な活動を続けた。この間多くの論文発表や本を出版するなど研究への意欲は少しも衰(おとろ)えなかったが、病は再び回復せず、ついに、一九〇七(明治四〇)年九月十四日、三十五歳の若さで永眠(えいみん)した。 郷土はもとより「早稲田の梁川」として日本を代表する文芸の思想評論家として広く知られている。若くしての梁川の死は、大変惜(お)しまれ、今でも日本の学者たちの中に梁川の思想は生きているのである。現在、有漢町や高梁市に綱島梁川の書いた日記、原稿、図書など多く残っていて大切に保管されている。 <出典:高梁歴史読本社団法人高梁青年会議所発行> 索引【つ】分類[高梁偉人伝]登録日-2003/09/1319:08